驥尾に付す(きびにふす)〜1
とーとです。今日は落ち込んでます。
発泡酒も飲みました。でも、落ち込んでいます。
こんな日もあります。
気を取り直して、今日の故事成語です。
「驥(き)」とは、名馬のことです。「尾(び)」は、言うまでもなく、尻尾のことです。
これに、くっついて行く。ということです。
ハエが、遠くまで走れる馬の尻尾につかまっていれば、すごく遠くまで行くことができる。そんな言葉です。
現在では、立派な人の後について行けば、自分もそれなりの恩恵にあずかれる。そんな感じで、自分を謙遜したりするときに使うみたいです。
もともとは、孔子の弟子に顔回(がんかい)という、すごく才能がある人がいたけれど、いくら才能があって優秀でも、孔子の弟子になっていなければ、そんなに有名になってたたえられずに、生涯を終えていただろう。そういう記述がもとになっています。
ついて行く人を間違えると、とんでもない目にあうので、気をつけた方がいいよ。
それを見分ける目がないと、単純に「運が悪かった」などと言い訳するはめになる。
自分では道を切り開けないから、誰かのところにくっついて、成功したら、楽して、おこぼれをもらおう。などと考えているのは、とーとだけではないはずだ。
しかし、もともともの意味から考えると、尻尾について行くと言いながら、それも楽ではないだろうなあという感じだね。
振り落とされないように、真剣にしがみついていかなくてはならない。
この馬でよかったか。競馬じゃないけど、どの馬にするか選ばなくてはいけないし。
顔回という人は、師匠である孔子に、しっかりと学んだのだろう。そして、常に、師匠である孔子に問いかけて、その答えに感銘を受けたからこそ、確信を持って師匠にしっかりとついて行き、教えを自分のものにしていったのだと思う。
ハエであっても、馬とは違う生き物で、ハエにはハエの人生がある。
馬の尻尾についていきながらも、この人でよかったのか、常に問う必要がある。遠くまで行けなくても、自分で飛ぶこともできるのだ。
馬の立場になると、先生というのは、常に生徒から問われる存在だと言えるよね。
勝手に尻尾につかまられて、常に質問にさらられる。先生も楽ではないなあ。
教えると行くことは、教えられることでもあると聞いたことがある。
馬も. ハエを連れてくことで、心の慰めになったのだろうか。
テンションあげるのがしんどい!
今日は、ここまで。