とーと通信

50代後半の父親が息子に語るブログです。よろしければご覧になってください。

群盲評象(ぐんもうひょうぞう)〜2

とーとです。

 

やっとこ時間がとれて、下書きを書いてます。

 

昔たずさわっていた仕事の関係で、戸籍の関係には少し知識がある。

と言っても、ずいぶん昔の、うろ覚えの知識だけど。

 

今は、「家」という意識がずいぶんとうすれている。

昔は、戸籍とは「家」を単位に作られていた。

「戸主(こしゅ)」と呼ばれる、その家の主人を中心にして、夫婦、子、孫、兄弟姉妹、などが、一つの「家」を構成していた。

相続の権利も、普通、戸主の長男がすべてを引き継ぐようになっていた。

 

新たに一家をかまえ独立することを「分家(ぶんけ)」と言った。

 

第2次世界大戦で、日本が戦争に負けてから、「民主的でない」との理由から、戸籍は「夫婦とその子供」単位で作られるようになった。

今の君の戸籍には、とーとと、お母さんと、君の3人が載っている。

君が、好きな人ができて、結婚すれば、とーととお母さんの戸籍からはずれて、お嫁さんとの新しい戸籍ができることになる。

 

戸籍はどこにおけるか?

戸籍は住所とは違うので、住んでいるところにおく必要はない。

そこにその土地(番地)があれば、他人の土地だろうと、北方領土だろうと、戸籍をおくことができる。

ただし、架空の番地(実際に存在しない土地)に置くことはできない。

 

さて、戸籍の話はまだまだできるが、本題も少し話そうか。

 

「群盲評象(ぐんもうひょうぞう)」

たくさんの目の不自由な人が、象を触り、さわった場所ごとに、違った象の姿を伝えた説話だったね。

 

象は全体として象だから象なんだよね。

 

よく、「分かる」という。

「理解する」という。

 

分かるということは、全体を、一度ばらばらに「分解」して、それぞれのパーツを調べてみて、そのことを納得して、自分のものにするということなのだろうか。

 

とーとを切り刻んで、

心臓を取り出しても、それはとーとではない。
脳みそを取り出してもそれはとーとではない。

 

心がとーとなのか?

心ってどこにあるのか?

こんなにコロコロとうつろい、目まぐるしく変わるものが、とーとなのか?

 

自分探しとよく言うが、どうやって自分を見つけたらいいのだろうね。

 

大きく全体を感じて、それがとーととするしかないのかなあ。

言葉にできるものは、とーとではないのだろう。

 

いずれ語ろうと思っている

「白馬非馬(はくばひば):白い馬は馬ではない」という中国古代の思想にも通じそうだ。

 

難しく考えても仕方がないことだ。

でも、ときおり、自分を見つめ直す時に、ふと考えてみることも、悪いことではないかもしれない。

 

人は一人でやってきて、一人で去っていく。

 

今、君が、一生懸命、自分の道を探してがんばっているのを、とーとは、とてもうれしく見守っている。

 

多分、一生が自分探しなのかもしれないね。

 

「分け入っても分け入っても青い山」(種田山頭火

 

今日はここまで。