群盲評象(ぐんもうひょうぞう)〜2
とーとです。
やっとこ時間がとれて、下書きを書いてます。
昔たずさわっていた仕事の関係で、戸籍の関係には少し知識がある。
と言っても、ずいぶん昔の、うろ覚えの知識だけど。
今は、「家」という意識がずいぶんとうすれている。
昔は、戸籍とは「家」を単位に作られていた。
「戸主(こしゅ)」と呼ばれる、その家の主人を中心にして、夫婦、子、孫、兄弟姉妹、などが、一つの「家」を構成していた。
相続の権利も、普通、戸主の長男がすべてを引き継ぐようになっていた。
新たに一家をかまえ独立することを「分家(ぶんけ)」と言った。
第2次世界大戦で、日本が戦争に負けてから、「民主的でない」との理由から、戸籍は「夫婦とその子供」単位で作られるようになった。
今の君の戸籍には、とーとと、お母さんと、君の3人が載っている。
君が、好きな人ができて、結婚すれば、とーととお母さんの戸籍からはずれて、お嫁さんとの新しい戸籍ができることになる。
戸籍はどこにおけるか?
戸籍は住所とは違うので、住んでいるところにおく必要はない。
そこにその土地(番地)があれば、他人の土地だろうと、北方領土だろうと、戸籍をおくことができる。
ただし、架空の番地(実際に存在しない土地)に置くことはできない。
さて、戸籍の話はまだまだできるが、本題も少し話そうか。
「群盲評象(ぐんもうひょうぞう)」
たくさんの目の不自由な人が、象を触り、さわった場所ごとに、違った象の姿を伝えた説話だったね。
象は全体として象だから象なんだよね。
よく、「分かる」という。
「理解する」という。
分かるということは、全体を、一度ばらばらに「分解」して、それぞれのパーツを調べてみて、そのことを納得して、自分のものにするということなのだろうか。
とーとを切り刻んで、
心臓を取り出しても、それはとーとではない。
脳みそを取り出してもそれはとーとではない。
心がとーとなのか?
心ってどこにあるのか?
こんなにコロコロとうつろい、目まぐるしく変わるものが、とーとなのか?
自分探しとよく言うが、どうやって自分を見つけたらいいのだろうね。
大きく全体を感じて、それがとーととするしかないのかなあ。
言葉にできるものは、とーとではないのだろう。
いずれ語ろうと思っている
「白馬非馬(はくばひば):白い馬は馬ではない」という中国古代の思想にも通じそうだ。
難しく考えても仕方がないことだ。
でも、ときおり、自分を見つめ直す時に、ふと考えてみることも、悪いことではないかもしれない。
人は一人でやってきて、一人で去っていく。
今、君が、一生懸命、自分の道を探してがんばっているのを、とーとは、とてもうれしく見守っている。
多分、一生が自分探しなのかもしれないね。
「分け入っても分け入っても青い山」(種田山頭火)
今日はここまで。