此奇貨可居(きかおくべし)〜3
とーとです。
先日、親戚の農家のお手伝いをしました。
農業も奥が深い仕事です。
日頃の管理はもちろんですが、収穫についても、
価格の相場
作物の出来具合
作業効率
など、いろいろなことを考えて、少ない労力で、最大限の利益をあげなくてはなりません。
とーとは、要領がわからず、足手まといになりながら、筋肉痛になりました。
「手伝いとは、相手の考えを読んで、先に先にと手はずを進めるものだ」
というのが亡き父(じいさん)の教えですが、そんなにうまくいかないですね。
組織の中で仕事をしていると、自分の守備範囲の中でしか物事を考えられなくなってきます。
ときには、他人のエリアに入るのはルール違反ということになります。
しかし、日頃の心がけとしては、常に全体を見る目が大切ですね。
とーとが農業や自営業に向かないのは、組織人としての経歴が長かったのが原因の一つかもしれません。
しかし、農家の人の、常に情報を仕入れるためのつながりをつくり、それを活かしていく姿勢には、少し違う世界を見たような感じで、新鮮な感じがしました。
さて、「奇貨居くべし(きかおくべし)」
君がかねてから指摘している、とーとの商才の無さを、この話を書いていていて、あらためて痛感する。
そのままでは、なんの価値もないものの特殊性を見い出し、それに付加価値をつけて利益を得る。
これが要諦だと思う。
平成から令和に元号が変わるとき、「平成」という道の駅で「平成の空気」という缶詰を売ったそうだ。当然中は空気が入っているだけだが、かなり売れたらしい。
川や海に流れ着く流木も、インテリアとしてモノによっては高額がつくらしい。
ものの価値というのは、人が付けるもので、絶対的なものではない。
中東では、ガソリンより水の方が高価な国もあるらしい。
硬貨や紙幣も、額面以上の値段がつくものもある。「〇〇年発行の5円玉」が5円ではないとうい話らしいぞ。
美術品にでも、実用品でも、そこに、その価格で欲しいという人がいて、価値が生まれるのね。
すごい価値がつく「抽象画」や「書」なんか、何が書かれているかわからないものなあ。
「猫に小判」「豚に真珠」という言葉も、別に猫や豚をさげすんでいるわけではなく、価値観の違いなのだろうなあ。
とにかく、「呂不韋(りょふい)」はそのままでは王様になることなど夢のまた夢の状態で、価値など無いように見えた公子を、付加価値をつけ、情報を操作し利用し、販路をつけることで素晴らしい商品に仕立て上げて巨利を得た。
やはり、ここにも、情報の重要性がある。
そして、その情報を活かす、発想がある。
今のところ、とーとは商売脳ではない。
どれだけの価格で、どれだけ売れば、どれだけ儲かるか考えたこともなかった。
多くの人にとっては常識なのだろうけど、前の職場ではそんなこと必要なかったから、長年、意識してこなかった。
単に労働力を提供して対価を得る習性が身に付いてしまっている。
めんどくさいけど、そんなことは言ってられない。これから少しずつ改めて行くことにする。
「呂不韋(りょふい)」のような天才ではないにしても、「三人寄れば文殊の知恵」で、アイデアを出し合い情報を交換しあってやってゆけば、なにかいいものが生まれるように思う。
そういうことが、硬直しないで行われているのが良い組織なのだろう。
活き活きした環境に身を置いておきたい。
活き活きした環境を作りたい。
まだ、組織人であることから抜け出せないとーととしては、とりあえずは、その辺をがんばることにする。
今日はここまで。