とーと通信

50代後半の父親が息子に語るブログです。よろしければご覧になってください。

樗櫟散木(ちょれきさんぼく)~2

とーとです。

ただいま2021年12月26日です。

まもなく、新しい年を迎えます。

年頭のご挨拶の下書きを始めようとしたのですが、しばらく手を付けないうちに、編集がすべて英語表記に変わり、まったく操作の仕方がわからなくなり、やむを得ず、作製したその場で公開してしまうことにします。

そんなわけで、来年もよろしくお願いします。(いつまたお会いできるかわかりませんが)

本当は、ブログを書いているゆとりはないのですが、久しぶりに確認したら、まだ、訪問いただいている方が1日に数人いらっしゃいます。

礼儀として、つまらない話でも、アップしておかないといけないと思った次第です。

来年は還暦を迎えます。

厄年でもあるそうです。

妻の発病、在宅での介護の生活のなかで、厄年もなにもないように思いますが、それでも、年があけてしばらくしたら、密を避けてお祓いに行こうと思っています。

 

妻の発病や、親しい人が若くして逝ってしまったことなどから、妙に達観してしまうような心境になっていましたが、やはり、何か心のよりどころになるものがないと立っていられません。強くないのですね。

ユーチューブで、ご祈祷の動画などをのぞかせていただいています。

そこにテロップで

「世界の平和を祈りましょう」

「応援してくれる人々の幸せを祈りましょう」

などの言葉が流れたのを見て、しばらくそんな思いに至っていない自分に気づき、はっとしました。

大切な気持ちを置き去りにしていました。

しかし…。思うこともあります。

「世界平和」

すばらしいことです。尊い祈りです。でも、頭の中を、米中対立をはじめとした、様々な国際問題が横切ってしまいました。

悲しいことに、争いはなくなりませんね。このコロナ禍を通じて、世界が手をとりあって人類の災厄に立ち向かっていかなければならないはずなのに、愚かにも、利権をめぐって、多くの国、民族、人々が争いを続けています。どうにもならにないような虚しさがあります。祈るしか、今のところないようです。とーとは特定の宗教などの熱心な信者というわけではありません。ただ、目には見えない、なにか大きいもの存在があるのだろうとは思っています。このことを、他人に強制するつもりもありません。

ただ祈ろうと思います。だいぶ雑念が入るでしょうけどね。

「他人の幸せを祈る」

これも忘れていました。苦しい日々を送るなかで、自分が救われようと必死です。ほかの人のことを思いやることをおろそかにしていました。

しかし、自分が救われようとする気持ちの方が強いです。余裕がないですね。

でも、多かれ少なかれ、だれもが自分がかわいいですよね。

他人をねたみ、恨むことはありません。むしろ、助けていただいていることに深く感謝はしてるのですが、その人の幸せまで祈ることは思い至りませんでした。やはり、祈ろうと思います。

感謝といえば「自分をほめてあげる」という言葉もテロップに流れました。

これが一番難しいです。

 

さて、そういうことで、「樗櫟散木(ちょれきさんぼく)」

これは、自分を謙遜していう言葉だよね。

自分を認めること、自分をほめること。これが今のとーとには一番難しい。

いい父親ではない。ましてや尊敬される存在でもない。

要領悪く、かっこ悪い姿を見せてきた。

受験生の君の心にも、大きな負担をかけている。

いつも、すまないと思っている。

君に対ししてだけは、もっと大きな存在になりたかったなあ。

とにかく「視野が狭すぎたこと」これが一番の反省点。

誰もがいろいろな制約を抱える中で生きている。でも、君には、君の抱える制約の中でも、様々な事象と出会い、たくさんの人と話をして、大きな視野で物事を見られるようになってほしい。「一生勉強」それがそういうことだと思う。

 

今年のとーとの目標

「少しずつでも、新しいことをうけいれていくこと」

まだ、進化はできると思います。

皆様も、年齢に関係なく、「一歩ずつ自分を高めていくぞ」と、気持ちを奮い立たせて、新しい年をお迎えください。

良い年が来ます。絶対来ます。

皆様が幸せでありますように!

 

今年はここまで。

 

樗櫟散木(ちょれきさんぼく)~1

とーとです。

令和3年8月15日夜 このブログを書いています。

旧盆です。

あちらの世界から帰ってきて、作文をしているわけではありません。まだ生きています。

このブログも、正月にアップして、それ以来です。

以前「累卵之危」などで話しましたが、毎日が綱渡りです。

生きているのは、毎日が奇跡なのだつくづく実感しますね。

くどいですが、長距離通勤、仕事、家事、介護などに追われています。とにかく睡眠時間の確保が優先ですので、運動不足になり、すこしお腹に脂肪がつきました。

しかしハードです。仕事もそうですが、家庭のこと家族のことについて、調べて、考えて、決めてゆかなくてはならないことが増えました。

体の不自由な家族を抱え、どうやって生き延びてゆくか。

頭が混乱して、間違いや忘れてしまうことも増えてきました。以前なら、もう少しまともにできたような気がすることが、できていないというのは、まったく我が事ながらいらいらします。年齢的なこともありますが悔しいですね。これを達観できるのが「歳をとる」ということかもしれません。

そんなわけで、「とーと通信」も振り返るゆとりなど全くありませんでした。

このブログも見返すことなく放置していましたが、久々に確認したら、アクセスしてくれる人がほんとに数人ですが、ほぼ毎日いらっしゃいます。

まちがって迷い込まれたのかもしれませんが、とにかく、ありがとうございます。

ただ、本当にくたびれています。数少ない読者の方に、私の生存を伝えるべく相変わらずの拙い文章を綴っています。

このブログは、単身赴任だった私が、離れて暮らしている息子に、出来損ないの父親がどんなアホなことを日ごろ考えているのか伝えるために始めたものでした。

今は、毎晩、息子とも夕食を囲むようになりました。その意味では、このブログは役割を終えています。それでも、相変わらずアホで軽蔑にも値するような親父が、何を考えていたかを少しずつ残しておけたらよいなあと思ってはいます。

ただ、先にも申し上げましたが、本当に毎日がいっぱいいっぱいです。次のリリースができるのか定かではありません。

 

今日は、終戦記念日でもあります。戦争のこと、歴史認識のこと、今私たちが生きている社会の中での争いのことなどについても、私個人の考えを語っておきたいのですが、テーマが大きく、語りたいことが多すぎて、今は体力がもちません。

現在と未来への危機はいろいろありますが、国際間の争いについてしっかりとした情報と見識を持つことも、とても大切なことです。他人任せにしないで、私たち一人一人がしっかりとした考えをもって行動してゆかないと、とんでもないことになってゆきそうな気がしています。残念ですが、ここのところは、あるかないかわからない、次回以降に譲ります。

 

新型コロナウィルスの「デルタ株」が猛威をふるっています。

賛否両論の中、オリンピックが開かれました。

私個人としては、「やるとかやめるとか言ってるけど、やれないんじゃないの?」と思っていました。結論はどうあれ、企業や政治の思惑で決めるべきではないとは今でも思っています。

結果として、無観客での開催。

選手の方々は、テレビ越しの私たちに、多くの感動を与えてくれました。皆さん、オリンピックのために命懸けで取り組まれているのだろうなあと感じました。

「かわいそうだけど、スポーツなんだから、みんなの命の方が大切でしょう」という、開催への反対意見を否定はできませんが、選手の方、サポートされている方含めて、この舞台を目指されてきた意識にというものについて、私としては再認識せざるを得ませんでした。

オリンピックの開催が、直接コロナ感染の拡大をもたらしたという査証はいまのところないようですね。

ただね、「お祭り」でもあるんですよね。

空気というか、雰囲気というか、そういうものが、この開催で「感染に対する危機感」を薄めてしまっていなかったかという、検証できない点が私にはひっかかります。

事実、札幌のマラソン競歩のコースでは、制止を無視する「観客」が「密」の状態

をつくりあげてしまったようですね。

人というのは、理屈だけで動くものではないんだとつくづく思います。

危険があっても、他人に迷惑をかけても、なんのかんの言い訳して、政府なんかの責任にして、自分だけじゃないんだと開き直って、居酒屋でお酒を飲みたい生き物ですね。

感動と勇気を与えてくれる素晴らしい生き物であると同時に、自分勝手で無責任な、愚かな生き物でもあるのですよね。

こういうことは、残りが少なくなった人生ですが、改めて肝に銘ずるとともに、息子にも伝えておきたいところです。

 

さて、久しぶりだったので前置きが長くなり、夜も更けてきた。

お題の「樗櫟散木(ちょれきさんぼく)」について。

これは、何回もこのブログで紹介している「荘子(そうし)」という人の思想に出てくる物語だ。

大工の名人が弟子を連れて、社の前にそびえている大木の前を通った。

その木は実に大きくて、見物に来る人も多くいるほどのみごとなものだったが、大工さんは、見向きもしないでその木の前を通り過ぎた。

弟子はそれを不審に思い、師匠の大工に理由を尋ねた。

師匠である大工の名人は語る。

「あの木は

 船を造れば沈んでしまう

 棺桶を作れば腐ってしまう

 家具を作れば壊れる

 扉をつくれば『やに』だらけ

 柱にすればすぐに虫に喰われてしまう

 そんなわけで、なんの使いようもない木だ

 使いようもないから、切られることもなくあのようにおおきくなったにすぎないのだ」

 

その夜、大工の夢に大木があらわれて言った。

「ほかの木は、有用であろうとして命を縮めている。

 私は、長い長い時間を無用であろうとつとめてきた。

 このことが、私にとっては長寿という意味で有用なことなのだ。

 有用であろうとして、命を縮めることこそが無用のものなのだ」

 

そんな話である。

荘子様の思想は、無為自然を貴ぶことが主体になっている。

役に立たないという価値基準を否定するお話は、ほかにもいくつも残されている。

 

まあ、「とーと」としては、大木には大木の、大工には大工の価値基準があって、それはそれでいいのではないかと思うのだが……。

 

この大木は「櫟」と記されている。いったい何の木なのだろう。そして、この故事成語の「樗櫟」の「樗」もどんな木か気になった。

調べてみたけど

「樗」は「おうち」という木で、「櫟」は「くぬぎ」らしいのだが、どんな木か、やっぱりよくわからない。

なにしろ、漢字は中国から入ってきたけど、木や魚などは文字にサンプルがついてきたわけではないから、日本と違うものを指すことも多いらしい。

この「木」の例はどうか知らないが、魚の「鮎」は日本では「アユ」と読み、多くの釣り人が愛する魚である。しかし中国では「ナマズ」を指すとのこと。伝説では、神功皇后(じんぐうこうごう)が「アユ」を釣って戦の吉凶を占ったことから、以後、日本では「魚」偏に「占(うらなう)」をつけたものがアユを指すようになったという。おおらかというか、輸入したものを自分たちに合わせて作り変えるのが得意な日本人らしいというか……。

 

「樗櫟散木(ちょれきさんぼく)」というのは、「役に立たないもの」として、自らをへりくだって言うときに使われる。

役に立たないということで、必ずしも長生きできるのか。荘子様には申し訳ないが、とーとにはわからない。

役にたたないことで、年老いた雄鶏は食べられてしまうことになる。

ただ、無理に限界を超えるまで頑張り続けるのは疲れるね。

できないこと(役にたたないこと)について、助けてくれる人がいたら、素直にそれに従ったらいい。これが、一番の長生きの秘訣のような気がする。

とーとも、こんな状態で無理をしている。そして、できないことも多くなった。手を差し伸べてくれる人がいて、今日がある。感謝しかない。

それでも、まだ、「踏み込みにくい」と感じさせるオーラを醸し出しているような気がするところもあるのだよなあ。もう少し甘えてみようかな。君はだらしなく感じるかもしれないが(もう感じてるだろうなあ)

君は、物事を自己完結する思考タイプのように感じている。(違ってたらごめん)

自分で調べ、自分で感じ、自分で考え、自分で決めるのはとても大切なことだ。

でも、無理しすぎないこと。相手によっては、発信する情報はべつに曖昧なものでもいいのだと思うよ。

そして、くだらないおしゃべりの中にも重要なことはたくさんちりばめられているのだから。

 

あらら、日付がかわってしまった。

 

「樗櫟散木」のとーとは、少しでも長く生きなくてはならなくなったので、語り足りないが寝ることにする。

久しぶりなのに中途半端でごめんなさい。

 

いつの日にかまた、お話できたらいなあ。

今日はここまで。

一陽来復(いちようらいふく)~1

あけましておめでとうございます。

とーとです。

 

昨年は皆さま激動の年だったと思います。

新型コロナウィルスの流行から、生活様式が大きく変化したのではないかと思います。

今、ウィルスの流行は終息するどころか、ますます猛威をふるい、東京など大都市ばかりでなく、この地方都市でも身近なものに感じられています。

そればかりでなく、感染力の強い「変異種」まで発生して、また世界中に蔓延の気配です。

このような状況の早期終息を願い、新年のお題を「一陽来復(いちようらいふく)」としました。

意味とコメントはのちほど。

 

まず、近況報告します。

 

昨年1月に病に倒れた妻は、長期のリハビリを終えて、8月末から在宅での生活を送っています。

障害が残ってしまいました。

そんなわけで、私は、それまでの単身赴任から、長距離を運転しての通勤に切り替えました。会社と同僚たちの厚意で、混雑する時間帯を避けて、通常の勤務時間ではなく、いわゆる「フレックス?」でお仕事をさせてもらってます。

しかし、仕事、通勤、家事、介護と重なるとさすがにきつい。

とにかく睡眠の確保が優先。自分の自由な時間が持てないです。ブログが書けないです。これはもう言い訳といったものではないです。

おまけに、記憶力、判断力の低下が著しい。

以前から、このブログで、能力の衰えを嘆いてきましたが、仕事のことに加えて、家のことも調べて、考えて、決めて、行動してゆかなくてはなりません。

思考が混乱し、あれを忘れ、これをやりかかってそのままになりといった具合です。

多忙なのが負荷になっているのではないかと思うのですが、もしかしたら、ほんとに加齢によるものかもしれません。休んだらすっきりするのかどうか、少し不安です。

 

よく、1年を乗り切ったと、自分でも思います。

妻が倒れてからの一年は激動の年でした。それにコロナ禍が上乗せされて、よくもまあやってきたもんですね。

 

さて、お題の「一陽来復(いちようらいふく)」

これは、易経(えききょう)にある、「地雷復(ちらいふく)」という「卦(け)」のことなんだよ。

といっても、なんのことかさっぱりわからないと思う。

易経(えききょう)は、古い中国の占いの書のことだと、ざっくり理解してもらっていいだろう。

昔は、占いといえば「易(えき)」であり、占い師を「易者(えきしゃ)さん」と言っていた時代もあった。

易にはもともと3種類あったらしく「連山(れんざん)」「帰蔵(きぞう)」「周易(しゅうえき)」のうち、前の2つは途絶えてしまい「周易」が現在に伝わっていると聞いた。

とーとは、若いころ、この「易経」について少しハマったことがあって、何冊か関係する本を読んだり、原典を読んだりした。

詳しい説明は、退屈だろうから今はしないけど、「とっつきにくいけど、内容が深いものではあったなあ」と今思う。

 

何人もの聖人といわれる偉い人の手を経て書き加えられて今日の形が出来上がったと伝えれられているが、孔子様の加筆もあって、儒教の必読書である「四書五経(ししょごきょう)」にも入っている。

「怪力乱心を語らず」とおっしゃって、神仙の世界などのことは、肯定も否定もせず、人とはどうあるべきか、理想とする社会とは何かということを語ってきた孔子という人の「教科書」のなかに「占い」があるのはおもしろいと思っていたが、原典を読んでいったら、なんとなくわかったような気がした。

 

易経は確かに「占い」の書であることは間違いない。

実際、古来から現在に至るまで、様々な人がそれぞれの解釈をしながら、将来の予見、現在の悩みへの対処などに役立ててきた。

現在も、そういう純粋な「占い」を職業としたり趣味としたりして、研鑽を積みし人を救っている方もいらっしゃる。

 

とーとは、「占い」に関しては、やみくもすべてを信じてしまうつもりはないけど、そういうものはあるのだろうなあという感じを持っている。

あくまでも、とーとの感覚であって、君にそれを押し付けるつもりはない。

しかし、未来予見といえば、占いで今回のコロナ禍をしっかり予見して警鐘を鳴らすことができた人っていたのかな?

終息をしっかり断言できる人っているのかな?

きっといるはずだと思うけど、残念ながら、とーとの耳には聞こえてこない。

 

今私たちが認識できる世界の上に、もっと漠然とした「おおきなもの」が存在するのだろうと、とーとは思っている。

もともと、自分の目に見えるもの、自分の手で触れるものががすべてという世界観はどうにもなじめない。

ユングの「集団的無意識」という論理のなかでは、意識できない世界が広がっていて、そこにアクセスする方法は存在するだろうし、いまだにワクチン開発にこんなに時間がかかっている程度の科学の世界で、世の中のすべてが解明できるなんて、かけらも思っていない。

 

ただ、お母さんが倒れてから、少し、とーとの世界観は変わり始めてもいるのだけれど……。

  

話を戻すと、とーとは、易経とは、単純に占いの書ではなく、「思想書」だと感じた。

だって、おみくじの「大吉」みたいな内容の結果が出ても、

「あなたが正しい道を歩いていれば願いはかなうでしょう」

「おごらず、へりくだっていれば、災いはさけられるでしょう」

などという感じで、まず、占う人自身の姿勢が問われるのだから。

そして、すべてのものは、「陰(いん)」から「陽(よう)」へ「陽」から「陰」へととめどなく移り変わり、一つのところに止まってなんかいない。

例えば「山風蟲(さんぷうこ)」などという「卦」(結果?)があったりする。

これは、「山が風をせき止め、腐って虫がわいていまう」といった形を象徴している。

風通しが悪く停滞してしまうと、そこに腐敗があらわれてしまうということだと思う。なんか政治や組織の世界に通じる姿を示したりもしている。

まあ、政治を行うことについては、必ず批判がついてまわる。これを無理やり押さえつけることも、腐敗をまねくことではある。

長く続いた 安倍政権は、安定した政治を行ってきたという意味では評価できるのだと思う。しかし、外にも内にも競争相手による緊張が少なく、後継者の芽もあまり育っては来なかったのではないかなと、とーとが勝手に偉そうな評価をしてもまあ意味ないか。

緊張感という意味では、「官邸主導」というのも、「官僚」が力を持つという、それまで弊害とされていたことから、国民に選ばれた人々から構成される「内閣」に力を移したのは、ある意味成功なのだろうが、政治家というのは「選挙に勝つ」のが大前提だから、どうしても、「今」が優先になり「大衆におもねる」傾向がでる。

先を見越して政策を提言できる優秀なスタッフが育っていたのだろうか?政治家におもねる人しかポストを得られないのも緊張感を欠いた「風がせき止められた世界」だったのではなかったろうか。政治家と官僚も、緊張感をもって、論議ながら政策を作り上げてゆかなくてはならなかったのではないかなあ。

今、世界中の人がコロナ禍で苦しんでいる。日本ももちろん例以外ではない。

どうにも、政府のやることなすことが後手後手にまわっていると多くの人が感じているのではないかと思う。

これも、今までの「山風蟲(さんぷうこ)」の形から来た弊害であったようにも思う。

 

易については、昔から優れた人が、思想面でも優れた解釈をしているようだから、とーとの陳腐なたとえ話は笑われるだけだと思うけど、興味がわいたら、占いの解説書からでいいからみてみるのもいいかも。原典にたどり着くのが理想だけど。

 

さて、「一陽来復(いちようらいふく)」というのをごく簡単に示すと、

「地」の下に「雷」がある形になる。

 

ー -

ー -

ー -

ー -

ー -

ーーー

こんな形

 

上の3本が「地」

下の3本が「雷」

 

ー - は「陰」

ーーー は「陽」

 

真っ暗闇の世界に光が差し始めたかたち

寒い冬が去り、春の兆しが見えるかたち

地面の下から芽が出てきたかたち

 

この間、君と行ったお寺で「一陽来」と記されたお札をいただいてきたね。

春がきっとやってくる。

 

苦しかったなあ 1年。

まだ先が見えないなあ。

でも「冬来たりなば春遠からじ」「明けない夜はない」

 

みんな 絶対に春は来るからね。

 

「なんとかなる」(斎藤ひとりさん)

 

今年、何回リリースできるかわからないし、あんまりジョークもとばせる状態じゃないから内容もつまらなくなる(もともと!)とおもうけど、おりにふれて、また近況を綴ります。

 

数少ない読者の皆様ばかりでなく、全世界の方々にとって明るい年になりますように。

もちろん、自分が第一だけど(笑)

 

ではまた。

今日はこれまで。

ことしもよろしく。

 

 

 

矯角殺牛(きょうかくさつぎゅう)~2

とーとです。

 

忙しく、疲れております。

早朝からの長距離通勤、仕事、介護、家事、雑事。

疲れ果てて寝る。

自分の時間がありません。

気分転換など悠長なことを言っている余裕はなく、睡眠の時間確保を優先するしかないです。

 

周囲は暖かく手をさしのべてくれます。

しかし、決めるのは私なのです。

甘えるか、耐えるか。

切り捨てるか、持ちこたえるか。

さぼるか、受け流すか、誠意をみせるか。

もともと、組織の人間だったこともあり、周囲に諮り、議論したうえで最良の方法を選択する習性が身についています。

なんでも一長一短があって、決断が遅く、結果を一身に受け止めることができにくくなっています。

キャッチボールしながら、考えをまとめるタイプなので、ボールを投げて、返してくれる相手が欲しいのですね。

私の上司は全く真逆で、即断即決です。

当然これも様々障害が出ますが、あとから修正を加えて、事なきを得るという、余人にはまねのできないテクニックでかわしていますね。

 

まあ、頭も体も苦しいことには相違ありません。

 

とにかく、30代半ばに精神を病んでから、次々にいろんなことが降ってくること。

地味に波乱万丈の人生といえるのではないかと思います。

 

前にも話したと思いますが、妻が病に倒れるまでは、いつ死んでもべつにかまわないと心底思っていました。当然自分の命を自分で断つということとは全く意味が違いますが。

しかし、そうもいかなくなりました。

そんなことを、友人話しました。

その友人は、すでに孫がいます。私くらいの年齢では珍しいことではないですけど。

「もう、君も、子育てが終わって、一息ついて、酒も十分すぎるほど飲んだんだから、そんなに、思い残すこともないんじゃないかい?」

という、私の冗談めいた問いに、

「俺は、まだ、親父もお袋も健在で、女房の両親もいる。それぞれが、少しずつ弱くなってくる。4人いっぺんに介護しなくてはならなくなる可能性もある。親を送るまでは、まだまだ死ねないんだよなあ」

笑って、そう返してくれました。

それぞれが、いろいろなものを背負っています。

歴史の教科書に載るような人物でなく、名も残さずに消えていった人々。消えてゆく私たち。

それぞれが、波乱万丈の人生を生き、そして閉じてゆくのでしょうね。

 

しかし、繰り返しになりますが、これだけいろいろなことが降りかかってきますと、

「災難に遭うべき時節には災難に遭うがよく、死ぬべき時節には死ぬがよきことにて候」という、「良寛(りょうかん)」さんの言葉が浮かんできます。

これは、大地震が起きた時に、友人が心配して送った手紙への返事なのですが、その友人も、地震の際にお子さんを亡くされていたのだそうです。

そう考えると、無慈悲とも取れる言葉が、とてもやさしく感じられるのは私だけでしょうか。

 

逆の言葉も浮かんできます。

「絶望は愚か者の結論(ベンジャミン ディズレーリ)」

どんなときにも、困難を解決する方法を探し、トライし続ける。

 

先ほどの、良寛さんの言葉と矛盾を感じずに、今を生きています。

不思議な心境です。

 

さて、遅くなったが、お題の「矯角殺牛(きょうかくさつぎゅう)」

意味も、コメントも、前回話してしまったような気もする。

ただ、付け加えると、物事には常に逆の意味もある。

「短所には目をつぶり、長所を伸ばす」

よく、野球の監督やコーチなどが、そういう発言をされている。

成功例も多い。

しかし、一概に、短所長所を決めつけるのは、本人の可能性を狭めることにもつながる。

見極める目が大切だということ。

 

とーとは、小さい時から、父親(君のおじいさん)に、

「お前は運動はだめだ。学問のほうでがんばりなさい」

そう言われて成長した。

今考えると、限界を刷り込まれた感じもする。

「俺は、スポーツはだめなんだ」

そう思い続けてきたけれど、スポーツの世界に少しだけ足を踏み入れて、それなりの人に指導を仰いでいれば、生涯楽しめるものに出会えていたかもしれない。

 

長所というけれど、それも見極めが必要になる。

藤井聡太さんのおかげでブームがおきている将棋の世界では、

一定年齢までに一定の段階に達していないと、上に上がれない。

シビアで厳しい世界だ。

一見冷たく見えるけど、「ふるい」にかけなくては、その人の人生を棒に振ってしまうリスクを回避するためのものだということだ。

 

とーとは、運動が苦手だったから、みんながサッカーボールを蹴っている間も、図書室で本を読み漁り、今日の「とーと通信」ができあがっている。(だからどうだといばれるわでもないが)

短所は長所にもつながるし、そもそも何が短所で何が長所かわからない。

協調性がないのは致命的だが、人を引っ張っていく力量があれば、それなりに「カリスマ」などとはやし立てられ、成功するかもしれない。

 

多様性の時代になった。

どこを正すか。どこを伸ばすか。

 

おそらく、「将来のある若者に接してゆく道」を君は目指しているようだ。

真剣に考えれば、他人の人生を左右する責任が重い道だ。

それだけに、やりがいのある道でもある。

ただ、「馬を水辺に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない」

自分の人生は、自分のものだということ。

相手の人生は、君の人生ではない。

君は、君の目指す道の中で、自分の無力さを感じることがあるかもしれない。

でも、いかに稚拙に感じられても、相手を尊重しなければね。

正解なんて、神様でもわからないと思うよ。

 

人は、いろいろと壁にぶち当たる。

とーとは「八方ふさがり」になって久しいが、なんとか今日も生きている。

「壁」は、「壁」と思えば「壁」だけど、そうじゃない「丘」だとおもえば「丘」なのかもしれない。

「壁」は必ずしも乗り越えなくてはならないと、決めつけるものでもないかもしれない。前に立ちつくていれば、消えてしまうことだってあるかもしれない。

 

とにかくなにがどう転ぶかまったく予想がつかないなあ。

 

「何がよくて、何が悪いのかわからない」

「明日何がおこるかわからない」

とにかく、誰も悪くなんかないのだろう。

誰のせいでもないのだろう。

究極の無責任で本日は〆る。

 

今日はここまで。

生きてたら、また!

 

矯角殺牛(きょうかくさつぎゅう)~1

とーとです。

 

前回の投稿から1か月を超える時間が経過しました。

ブログでは、「おひさしぶりです」などは禁句だそうですが、ほんとうにお久しぶりなので仕方ないですね。

 

まったく、忙しいです。

今年1月に倒れた妻が、このたびようやく退院しました。

体に障害が残ってしまい、受け入れ準備に追われました。

そして、家に戻ってきてからも、試行錯誤の日々が続いています。

私の仕事は、あいかわらず、遠距離通勤が続いています。

われながら、よくやっているような気もしますが、落ち度ばかりで、情けない気持ちになることも多いです。

息子には、本当に助けられています。ただ、私たち両親が、現在も、将来も、息子の重荷にならないようにしなくてはならない ということが、最優先だと心に刻んで日々を送っています。

そうは言うものの、見るに見かねてか、息子がサポートしてくれることも多いのが現状で、やはり、情けない親であることは確かですね。

 

上司からは、

「お前は、今までだってずいぶん大変な思いをしてきた。そして、今日までなんとか生きているじゃないか。それには自信をもっていいんだと思うよ」

などと、なぐさめになるようなならないような言葉をかけられました。

今までやってこられたのは、自分の力でなく、みんなに助けられてきたのだと思っています。それを上司に話すと、

「助けてもらえる。それも実力のうちだよ」

そう言われました。

 まあ、深く考えず、素直に受け取っておこうと思います。

 

妻は社交家ですので、多くの友人の方々がいます。

皆様にご心配をいただいていましたので、主にLINEで退院の報告をさせていただきました。

新型コロナウィルスの流行で、病院への面会もままならない状態でしたから皆様には本当にご心配をおかけしておりました。

多くの方から、お祝いと励ましのお返事をいただいています。

ママ友の方の中には、海外へ出られた方もいて、そちらにもメールでお知らせしたところ、丁寧なお返事をいただきました。

ママ友といえば

私自身のことを振り返ってみれば、母親からは、あまり干渉されずに育ったような気がします。いつも、冗談をまじえて、心を軽くさせるようにつとめてくれていました。「進路」「人生」そんなことをあまり語ってはこなかったと思います。静かに子を案じてくれていた人でした。

時代が変わり、母親は子供のことで悩み続ける存在になってしまったようですね。

母親の多くが、「どんなにすぐれた素養を持っている子でも、欠点の方ばかり気になってしかたなくて、不安になってしまう」そんな存在になってしまったのかもしれません。一人で抱え込むのは、あまりにもしんどいことなのだろうと思います。

妻も、息子のことで迷いや不安を感じることは多かったのでしょう。情報を交換し、アドバイスを与え合うつながりを大切にしていました。私が単身赴任であったことも大きかったと思います。

それはそれでいいのだと思います。

ただ、結果として、子供はやがて、自分で考えて、自分で決めて、自分の足で歩いてゆくようになるのです。ときに転んだりもしながら。

まあ、40代、50代でニートなど、うまくいかなかった例もあり、原因はそれぞれでしょうが、親の過干渉も指摘されることがありますよね。

花も、水のやり方と時期を誤ると枯れてしまいますから。

 

さて、こんなふうに話を引っぱって、お題に入る。

矯角殺牛「つのをためてうしをころす」と読む。

 

昔、王様が川べりを訪れたところ、川の中から大きな牛が現れた。

危害を加えられないかと、おつきの人は皆恐れたため、ひときわ力と勇気にたけた人がいて、その牛の角をつかみ殺してしまった。

実は、その牛は、王様達に危害を加えるどころか、めでたい兆しとして現れた精霊だったそうだ。勘違いをして、良いことを帳消しにしてしまう例だったのだが、時代が移るうちに、

「危険な牛の角の形を変えて、安全なものにしようとして、帰って牛を殺してしまう」

つまり、「欠点をなおそうとして、かえってその者自体を使い物にならなくしてしまう」という意味になったそうだ。

話の前半とここで重なると思うんだけど、自分の子の欠点ばかりに目が向いてしまうお母さま方(お父様方も:「父親」を入れておかないと男女共同参画の流れに反すると叱責を受ける)は少し立ち止まって考えてみてはいかがなもんかと、とーとは思う。

とーとも(お母さんも)本当にだめな親だったし、今もそうだ。

君に対してろくなことができず、今も、心を痛ませ続けている。

だけど、君は、すでに立派にやっている。

能力も、ハートも、君はもうとーとを超えているように思う。(すべてではないと思うけど。まだ、そう思っていたい……。)

 

君自身が乗り越えてきた道。

でも、やっぱり、そのときそのときで、手を差し伸べてくれた人がいたはずだ。

そして、君は、今、手を差し伸べる人をめざしている。

手を差し伸べるとき、この、「矯角殺牛」という故事成語を心に浮かべてくれるとありがたい。

 

助けられている。生きていることは、助けられていることだ。

感謝を込めて。

 

今日はここまで。

 

 

轉禍為福~5(近況報告)

とーとです。

 

ずいぶんと、ごぶさたしております。

とにかく、余裕がありませんでした。

遠距離通勤で時間をとられ、睡眠時間を確保するのを優先する生活です。

自動車を運転しての通勤ですので、事故でもおこしたらえらいことです。

しかし、つかれてます。

ついつい、疲労を訴える言葉が口をついて、息子にも心配をかけています。

先日は、1日寝込んでしまいました。久しぶりに1日寝ました。

 

妻は、リハビリ入院中です。

1か月後くらいには退院の予定ですが、自立した生活は当面無理です。

そのため、自宅に戻った時のための、介助の練習なども始まっています。

とにかく、様々な準備にも忙殺されています。

 

前回話した、腸内環境を整えるサプリは続けています。

うなされなくなりましたが、効果が出たのか、疲労の蓄積でうなされどころでなくなったのかは不明です。

 

この2か月いろいろなことがありました。

兄貴のような存在だった方を喪いました。

朝、急に倒れ、意識が戻らず、翌日亡くなられました。

まだ信じられません。

田舎では、葬儀は、多くの人の手を経て、亡くなった方を送りますが、新型コロナウイルスの関係で、簡素な形になってしまいました。若くして亡くなられたからこそ、にぎやかに送ってあげたかったのですが、そういうわけにもいかなかったことも、いまだに実感がわかない要因かもしれません。

 

みなさんも、いろいろな事情を抱えて生きていられると思いますが、私も、一時は、「自分で命を絶つつもりはないけど、べつに死んでしまってもいいなあ」などとぼんやり思っていました。しかし妻が倒れて、そういうわけにもいかなくなりました。そして、親しい人の若くしての死。妻が拾った命。生きることが重いものだと改めて思います。

ただ、このブログに綴らないこともいろいろあり、ずっと、たいへんなことが、手を変え品を変えてやってきています。

上司は、「法的にグレーだとか、自分の矜持が許さないとか、そんなことは脇に置いて、積極的に状況を打破することを考えないとだめだ」などといいます。

しかし、いろいろなものが降ってきすぎて、下手な小細工は逆効果のような気がします。なれない方向に走ってもうまくいきそうもないし、「誠実」に生きてきたのを別に誇るつもりはないですが、別の生き方をしようとするつもりにはなれません。一人の力でどうこうできることはたかが知れています。

みなさまに助けていただきながら、今日まで生きてこられました。そういう感謝の中で生きてゆきたいです。

なんとなく、達観まじりの今日この頃です。

仕事での誰もほめてくれない小さな達成感と、息子の作ってくれるオムレツを楽しみに

 今日を生きています。

 

さて、君とはいろいろ話すようになって、ブログで伝えることも少なくなった。

だけど、試しに、今の世の中について、とーとが思うことをすこし綴ろうか。

 

新型コロナウイルスは、一時期かなり収まってきたが、非常事態宣言が解かれて時間が経過するにつれ、再び流行の兆しをみせている。というか、すでに第2波の流行が始まっている。ここ数日、東京では200人を超える感染者が出ているし、地方の都市であるこの地も、ぼつぼつと、クラスターや市中感染かもしれない患者さんが発生したりしてきた。

今となっては、当然といえば当然なのだが、当初は、誰もが、「このままおさまりますように」祈っていたんだよな。

しかし、東京を除いて「GO TO キャンペーン」は大混乱を引き起こしながら開始された。

政府の右往左往の対応を、観光関係の事業者さんが困惑し、批判している。

それはそれでまったく当然なのだと思うけど、キャンペーンを待ち望んでいたのは、ほかならぬ観光業界の方々のなではなかったなあ。

冷静に人命を第一に考えれば、いま、旅行観光をおすすめする時期とはとても思えないが、政治とは支持してくれる人がいて、その人たちの意向に沿うようにすすめるものだ。

「最終的には政治判断で、政治が責任をとります」などと政府の方は言っているけど、利益を求める人たちの欲求に基づいて動いているのが政治家という人々の一面でもある。

だから、これから、すごい状態になって、医療崩壊するかその直前までは、経済活動は止められないだろうと、とーとは予想している。

経済を止めるのも、やはり命の問題を含んでいる。

ワクチンができるのを待ってもいられず、前回ほどの活動規制?もかけられず、病気が蔓延して、結局は経済活動が停止してしまうのが、最悪のシナリオだけど……。

いろいろ批判もあるけど、誰が国のリーダーでも、この流れをかえるのは難しいような気がしてならない。

 

今回の疫病は、社会生活を変えたといわれるが、とーとのみるところ、社会生活は変わっていなくて、小手先で現況を維持しようと必死になっているようにみえて仕方がない。さっきの「GO TO キャンペーン」もその類のひとつといったら怒られるだろうなあ。

飲食、観光、夜の街、カラオケ、会社への通勤

隙間を開け、マスクと消毒と換気をしても、やっていることは、前と同じことだよね。

そして、前と同じ状態に戻そうとしている。

これからは、もっと、根元から変わらざるを得ないことになるのではないかなあ。

今の文化を残すことは大切だけど、文化というものは、その時代時代で形を変えてきていることも事実だ。

生き残りをかけるならば、大胆に変える工夫がないと淘汰されてしまう。

このままの状態では、禁止しなくても、お客さんが来ない状態が続いてしまうと思う。

修行して、資金をためて、自分の店を持って、お客様も定着してと、人生をかけて、血のにじむような努力をされてきた方に、その店を捨てろというのはあまりにも残酷だ。しかし、時勢がその形態を排除してゆくのであれば、あがらうことはできないのではないか。いずれ、まったく新しい形が、模索のなかでつくられてゆくのだろう。

 

「COVID-19」が、珍しくない普通の病気として定着しちゃうんじゃないかという、あきらめのような予感もある。

 

まあ、いろいろと憶測を交えて話したが、とーとの予想は当たったことがなく、想定外の連続だったから、大丈夫か?

 

国際的にも、経済は大きなダメージを受けたし、今もなお続いている。

V字回復できるのか? 大きな不況の予感もある。

暗い話ばかりで申し訳ないが、どうしても、そちらも気になるのだよ。

そして、香港の問題、他国の領海への頻繁な侵入、スパイ・ハッキングなど、中国のなりふりかまわない行動が目についてきている。

それまでの、「一帯一路」構想の流れもあるのだろうが、今後の世界的な恐慌にそなえて、利権の確保をめざしているというのは考えすぎだろうか?

アメリカとの直接的な対立が戦争などに結びつかなければいいけど。

 

やっぱり、この場で心配してもはじまらない。とーとの予想はあたらないことになってるのだ。

 

ただ、いつも言うんだけど、

政策や政治批判をしても、それを決める人を選んだのは自分たちだということ。

その決定に、間接的でも関与しているのも自分たちだということ。

「わかんない」「関係ない」などといっても、責任は結局自分たちがかぶるということを自覚できれば、「災い転じて福となす」ことになるのだけれど。

大きな試練の前で、みんなが

変われるか

変わらざるを得ないか

変わらなくてすませるのか

そういう局面にあるのだろう。

 

大変でなかったときはなかった。

なんとかなってきた。

だから、大丈夫、大丈夫。

 

みんなも大丈夫

君も、お母さんも、とーとも大丈夫

大丈夫

 

次回はいつになることやら。

楽しい話のネタが仕入れられますように!

 

今日はここまで。

 

轉禍為福~4(近況報告)

とーとです。

 

以前から、体調がいい話はしたことがありませんでしたが。このところ特にひどくなっています。

特に朝方のうなされがひどい。

気力がわかない。

ミス、物忘れ、勘違い、なくしものなどなど。

 

疲れたなあと思います。

妻が倒れてから、気を張ってやってきましたが、臨界に達しそうな気配です。

今、前のめりに倒れるわけにいかないので、少しゆるめるようにしていますが、きついです。

持病が首をもたげてきているのがわかります。

 

ただ、今の時点で、特に仕事については、できないとは言えません。ある程度の無理はしなくてはならないのです。

これまで、積極的に仕事の幅を広げて、会社に貢献して、それなりの評価をいただいてきたと思います。根っからの組織人であることとは別に、それが、自分の未来に、家族の未来につながると考えているからです。

だから、今、ペースダウンすることは、今まで築いてきた居場所を失うことになります。家族の将来が閉ざされます。

そんなわけで、ますます、ぎゅうぎゅうと追い詰められます。

 

妻のことだって、当然真剣に向き合わなくてはなりません。

 

話をしていて、途中で、相手に何を伝えようとしていたのか分からなくなるという、まずい症状が出ています。

 

とにかく、なんとかしかくてはならないので、

お守りに、パワーストーンの「モリオン」のさざれ石を枕元に置きました。

次に、腸内環境を改善するサプリを発注しました。

腸は、脳に信号を送り、それを受けて、脳が体に指令を送るという関係にあるのだそうです。これは、効くかもしれません。「フラーシボ効果」かもしれませんが、期待しています。また、効果のほどは、お伝えしようと思います。

 

さて、今回も、故事成語とは離れて、勝手なことを言ってみる。

 

今、SNSが世の中を変えていってる。

コロナウイルスの蔓延で

テレワークやオンライン授業などが広がっている。

とーとなどは、

「ブログ、フェイスブックツイッター、インスタグラム」については、「アザラシ、セイウチ、トド、アシカ、オットセイ」以上に、何がどう違うのかわからず、君にあらゆる設定をしてもらって、細々とブログをときおり書く程度の日々でだ。

 

しかし、今は、そういったものが、世の中を動かす力を持っようになった。

 

トランプ大統領は、記者会見などあまりせずに、ツイッターで自分の考えを発信してる。メディアは自分の発信を正確に伝えないというのがその理由らしい。

 

わが国での、検事の定年人事をめぐる法案の成立を阻止する動きなどは、SNSの力を示したまさにその典型と言えるのだろう。

いわゆる「世論」というものを形作るうえで、このような媒介は、大きな力を持った。

しかし、力をもつことが、いいことばかりとは言えない。

検事の定年延長の問題だって、出された法案を決めるのはみんなが選挙で選んだ「議員」で構成される国会の場である。

選んだ人が、100%完璧でないけれど、よく考えて投票したか、何もしなかったか、そういう私たちが、ちゃぶ台をひっくり返すのであれば、責任ってどこにあるのだろうなあ。

 

この国には政治など信用しない土壌があるのではないかとも思う。

政治の力を最終的にあてにせずに、なんとか、互助協力で乗り切ってきたのかもしれない。

「政治家など信用しない」そう言っている人が多いようにも思う。自分で選んでおいて矛盾は感じていないんだよね。

 

補助金も、マスクも届くのが遅いね。

私のところは、このごろやっと10万円の補助金の申請書が届いた。

いわゆる「アベノマスク」は、まだ届かない。

 

こういうことを、行政の怠慢だとみんな思うだろうが、「マイナンバーカード」にあらゆる情報を紐づけしていれば、あらゆることがもっと迅速に行われたはずだ。

とーとは、そうしたほうがいいとは言っていない。

個人の情報を、行政に管理されるのを危険だと考えるならば、今の状態を受け入れるしかないだろうと思うのだよ。

行政は、人を管理する方向に動く。そのほうが効率的だからだ。しかし、それは、基本的に個人が持っている権利という部分に踏み込んでゆくことになる。

自由であることは、少し不便なものだ。

全国の郵便配達の方は、毎日頑張ってマスクを配っていてくれるのだと思う。

100%信用できない行政を作っているのは、私たちみんなの責任なはずだが、社会とは多重構造になっているのだね。

 

そして、SNSが持つ力のことについては、

誹謗中傷で、自らの命を絶ってしまった(らしい)女子プロレスラーの方のニュースも入ってきた。

心無い言葉を投げつけた人たちへの批判も高まっている。

ただ、そういうことをした人は、ほんの一部に過ぎないのだが、たくさんの言葉を何度も投げつけて、攻撃を繰り返すのだという話もある。

コロナウィルスに感染した人の個人名を特定して、正義を行ったと意気揚々としている人もいるようだ。

 

みんな、そんなに強いメンタルを持っているわけではない。

とーとなんて、今や、メンタル がたがたの状態にある。

浅はかな言葉に踊らされてしまうことのない、「自分」を確立することは、とてもとても大切なことで、行きつくところはそこしかないんだろうと思うけれど、願わくば、もっと人にやさしい社会になってほしいなあ。

 

コロナウィルス後の社会は、新しい生活様式の時代だ。

だけど、人と人とのふれあいまで奪う世の中には、絶対にしてはいけない。

言葉や文字以外にも、相手に伝わるものはたくさんあることを忘れないでほしい。

 

さて、話は少しかわるが、

コロナウィルスの世界的流行を自国の利益に利用しようとする動きが顕著になってきているのは君も知ってるとおりだ。

「親の死まで利用する」ような行為で覇権を目指しているとしか思えない行為がある。

したたかだが、結局、国際的な信頼を失墜してしまうのではないかなあ。

また、自分が選挙で有利になることを最大の目的にして、人を幸せにするという目的は二の次にしてしまい、目的と手段がが逆になっているように思える人もいる。

 

「災い転じて福となす」というのは、不幸な事態を利用して、一部の人が、他の人を欺いたり、虐げたりすることとは、真逆のことだよね。

でも、私たちは、この災難を通じて、少しずつ賢くなっていることを信じたい。

 

匿名でこのブログを綴っていることへの自戒をこめて……。

 

あー やっぱり疲れた。すこし横になろっと。

 

今日はここまで。