矯角殺牛(きょうかくさつぎゅう)~2
とーとです。
忙しく、疲れております。
早朝からの長距離通勤、仕事、介護、家事、雑事。
疲れ果てて寝る。
自分の時間がありません。
気分転換など悠長なことを言っている余裕はなく、睡眠の時間確保を優先するしかないです。
周囲は暖かく手をさしのべてくれます。
しかし、決めるのは私なのです。
甘えるか、耐えるか。
切り捨てるか、持ちこたえるか。
さぼるか、受け流すか、誠意をみせるか。
もともと、組織の人間だったこともあり、周囲に諮り、議論したうえで最良の方法を選択する習性が身についています。
なんでも一長一短があって、決断が遅く、結果を一身に受け止めることができにくくなっています。
キャッチボールしながら、考えをまとめるタイプなので、ボールを投げて、返してくれる相手が欲しいのですね。
私の上司は全く真逆で、即断即決です。
当然これも様々障害が出ますが、あとから修正を加えて、事なきを得るという、余人にはまねのできないテクニックでかわしていますね。
まあ、頭も体も苦しいことには相違ありません。
とにかく、30代半ばに精神を病んでから、次々にいろんなことが降ってくること。
地味に波乱万丈の人生といえるのではないかと思います。
前にも話したと思いますが、妻が病に倒れるまでは、いつ死んでもべつにかまわないと心底思っていました。当然自分の命を自分で断つということとは全く意味が違いますが。
しかし、そうもいかなくなりました。
そんなことを、友人話しました。
その友人は、すでに孫がいます。私くらいの年齢では珍しいことではないですけど。
「もう、君も、子育てが終わって、一息ついて、酒も十分すぎるほど飲んだんだから、そんなに、思い残すこともないんじゃないかい?」
という、私の冗談めいた問いに、
「俺は、まだ、親父もお袋も健在で、女房の両親もいる。それぞれが、少しずつ弱くなってくる。4人いっぺんに介護しなくてはならなくなる可能性もある。親を送るまでは、まだまだ死ねないんだよなあ」
笑って、そう返してくれました。
それぞれが、いろいろなものを背負っています。
歴史の教科書に載るような人物でなく、名も残さずに消えていった人々。消えてゆく私たち。
それぞれが、波乱万丈の人生を生き、そして閉じてゆくのでしょうね。
しかし、繰り返しになりますが、これだけいろいろなことが降りかかってきますと、
「災難に遭うべき時節には災難に遭うがよく、死ぬべき時節には死ぬがよきことにて候」という、「良寛(りょうかん)」さんの言葉が浮かんできます。
これは、大地震が起きた時に、友人が心配して送った手紙への返事なのですが、その友人も、地震の際にお子さんを亡くされていたのだそうです。
そう考えると、無慈悲とも取れる言葉が、とてもやさしく感じられるのは私だけでしょうか。
逆の言葉も浮かんできます。
「絶望は愚か者の結論(ベンジャミン ディズレーリ)」
どんなときにも、困難を解決する方法を探し、トライし続ける。
先ほどの、良寛さんの言葉と矛盾を感じずに、今を生きています。
不思議な心境です。
さて、遅くなったが、お題の「矯角殺牛(きょうかくさつぎゅう)」
意味も、コメントも、前回話してしまったような気もする。
ただ、付け加えると、物事には常に逆の意味もある。
「短所には目をつぶり、長所を伸ばす」
よく、野球の監督やコーチなどが、そういう発言をされている。
成功例も多い。
しかし、一概に、短所長所を決めつけるのは、本人の可能性を狭めることにもつながる。
見極める目が大切だということ。
とーとは、小さい時から、父親(君のおじいさん)に、
「お前は運動はだめだ。学問のほうでがんばりなさい」
そう言われて成長した。
今考えると、限界を刷り込まれた感じもする。
「俺は、スポーツはだめなんだ」
そう思い続けてきたけれど、スポーツの世界に少しだけ足を踏み入れて、それなりの人に指導を仰いでいれば、生涯楽しめるものに出会えていたかもしれない。
長所というけれど、それも見極めが必要になる。
藤井聡太さんのおかげでブームがおきている将棋の世界では、
一定年齢までに一定の段階に達していないと、上に上がれない。
シビアで厳しい世界だ。
一見冷たく見えるけど、「ふるい」にかけなくては、その人の人生を棒に振ってしまうリスクを回避するためのものだということだ。
とーとは、運動が苦手だったから、みんながサッカーボールを蹴っている間も、図書室で本を読み漁り、今日の「とーと通信」ができあがっている。(だからどうだといばれるわでもないが)
短所は長所にもつながるし、そもそも何が短所で何が長所かわからない。
協調性がないのは致命的だが、人を引っ張っていく力量があれば、それなりに「カリスマ」などとはやし立てられ、成功するかもしれない。
多様性の時代になった。
どこを正すか。どこを伸ばすか。
おそらく、「将来のある若者に接してゆく道」を君は目指しているようだ。
真剣に考えれば、他人の人生を左右する責任が重い道だ。
それだけに、やりがいのある道でもある。
ただ、「馬を水辺に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない」
自分の人生は、自分のものだということ。
相手の人生は、君の人生ではない。
君は、君の目指す道の中で、自分の無力さを感じることがあるかもしれない。
でも、いかに稚拙に感じられても、相手を尊重しなければね。
正解なんて、神様でもわからないと思うよ。
人は、いろいろと壁にぶち当たる。
とーとは「八方ふさがり」になって久しいが、なんとか今日も生きている。
「壁」は、「壁」と思えば「壁」だけど、そうじゃない「丘」だとおもえば「丘」なのかもしれない。
「壁」は必ずしも乗り越えなくてはならないと、決めつけるものでもないかもしれない。前に立ちつくていれば、消えてしまうことだってあるかもしれない。
とにかくなにがどう転ぶかまったく予想がつかないなあ。
「何がよくて、何が悪いのかわからない」
「明日何がおこるかわからない」
とにかく、誰も悪くなんかないのだろう。
誰のせいでもないのだろう。
究極の無責任で本日は〆る。
今日はここまで。
生きてたら、また!