とーと通信

50代後半の父親が息子に語るブログです。よろしければご覧になってください。

他山之石(たざんのいし)〜1

とーとです。

 

なかなか、ヨガの好転反応がおわりません。

頭痛がおさまってきたと思ったら、首の後ろになにかぶつぶつできてきました。

薬も飲んでるし、精神的に不安定だから、体と心にたまった毒素も、人並み以上のものだということはよく自覚しております。

 

しかし、買ってきた本をもとにやっていて、確かな指導者についているわけでもないので、ポーズが正確ではないのではないかなどと、なかば疑心暗鬼になっております。

 

さて、本題。

「他山の石」は「他山之石可以攻玉(たざんのいしもってたまをおさむべし)」を短くしたもの。

これは、「詩経」というのにあるらしい。

出典の詳しい文章はよくわからない。

目立ったエピソードもない。

 

意味は、

「よその山から出た、質の悪い『石』も、『玉(宝石のこと)』をみがくのに役立つ。他人のつまらない言動も自分をみがくのに役に立つ」

といったところ。

 

インターネットで検索したら、

「人の立派な行動を見習って、自分の人格をみがきましょう」

などと勘違いして理解している人が多いから注意するように!

という記事が多かった。

まあ、勘違いは誰にでもあるし、

「オワター(^o^)」の意味を、最近まで勘違いしていた、とーとにも、あまり、他人のことは笑えないけどね。

 

正しい意味で「他山の石(たざんのいし)」の、近い言葉には

「反面教師」というのがある。

 

禅などでは、

「人はすべて我が師である」

などと、言われている。

よいとおもったことは、すなおに自分もまねして、

よくないと思ったことは、自分をいましめるようにすれば、他人の言動は、すべてが自分を向上させるものになるということだ。

 

しかし、そんな心境にいくのはほど遠い。

 

立派な言動には、

「ああ、自分にはできないなあ」

などと、みじめになったり、逆にねたんだりする。

 

みっともない行動には、単純にむかついたり、腹が立ったりする。

 

それで終わり。

 

進歩がないねえ。

 

そう言いながらも、常に、自分をみがこうと、つとめることはしんどいよね。

特に、歳を重ねてくると、面倒になる。

 

だからこそ、立派なことでもある。

 

いいことはまねする。

悪いことはまねしない。

 

なんか、子供に言い聞かせる、しつけみたいな感じになってきた。

あらためて思うと、大切なことなんだよね。

 

まだ調子が良くないので、ありきたりの作文になった気がする。(いつものことだ!)

 

不調が「好転反応」でありますように!

今日はここまで。