他山之石(たざんのいし)〜1
とーとです。
なかなか、ヨガの好転反応がおわりません。
頭痛がおさまってきたと思ったら、首の後ろになにかぶつぶつできてきました。
薬も飲んでるし、精神的に不安定だから、体と心にたまった毒素も、人並み以上のものだということはよく自覚しております。
しかし、買ってきた本をもとにやっていて、確かな指導者についているわけでもないので、ポーズが正確ではないのではないかなどと、なかば疑心暗鬼になっております。
さて、本題。
「他山の石」は「他山之石可以攻玉(たざんのいしもってたまをおさむべし)」を短くしたもの。
これは、「詩経」というのにあるらしい。
出典の詳しい文章はよくわからない。
目立ったエピソードもない。
意味は、
「よその山から出た、質の悪い『石』も、『玉(宝石のこと)』をみがくのに役立つ。他人のつまらない言動も自分をみがくのに役に立つ」
といったところ。
インターネットで検索したら、
「人の立派な行動を見習って、自分の人格をみがきましょう」
などと勘違いして理解している人が多いから注意するように!
という記事が多かった。
まあ、勘違いは誰にでもあるし、
「オワター(^o^)」の意味を、最近まで勘違いしていた、とーとにも、あまり、他人のことは笑えないけどね。
正しい意味で「他山の石(たざんのいし)」の、近い言葉には
「反面教師」というのがある。
禅などでは、
「人はすべて我が師である」
などと、言われている。
よいとおもったことは、すなおに自分もまねして、
よくないと思ったことは、自分をいましめるようにすれば、他人の言動は、すべてが自分を向上させるものになるということだ。
しかし、そんな心境にいくのはほど遠い。
立派な言動には、
「ああ、自分にはできないなあ」
などと、みじめになったり、逆にねたんだりする。
みっともない行動には、単純にむかついたり、腹が立ったりする。
それで終わり。
進歩がないねえ。
そう言いながらも、常に、自分をみがこうと、つとめることはしんどいよね。
特に、歳を重ねてくると、面倒になる。
だからこそ、立派なことでもある。
いいことはまねする。
悪いことはまねしない。
なんか、子供に言い聞かせる、しつけみたいな感じになってきた。
あらためて思うと、大切なことなんだよね。
まだ調子が良くないので、ありきたりの作文になった気がする。(いつものことだ!)
不調が「好転反応」でありますように!
今日はここまで。