とーと通信

50代後半の父親が息子に語るブログです。よろしければご覧になってください。

轍鮒の急(てっぷのきゅう)〜3

とーとです。あいかわらずです。

 

前回は「轍鮒の急」の故事成語からずいぶん離れたね。

今日もまた、話が飛ぶと思うよ。

 

荘子も魚も、何日も後のことではなく、今を生きなくてはならなかった。

追い詰められていても、そうでなくても、「今を生きる」ということはよく胸にきざまなくてはいけないと思う。

「今この瞬間を精一杯生きよう」ということはよく言われることだが、この意味が、本当にわかっている人は少ないかもしれない。

 

新約聖書

「明日のことを 思いわずらうことなかれ

   明日のことは 明日おもいわずらえ

   一日の労苦は 一日にて足れり」

という教えがある。

 

とーとはクリスチャンではないが、せっかくやって来る毎日を、少しでも明るく過ごそうと心がけている。

 

しかし、頭でわかるということと、心の底からそういうふうにできるということとは、悲しいかな別物だ。

 

とーとは、病気の関係もあり、朝がきつい。

目覚めているときは、心がけどおり、明るく人に接し、困っても、なんとかなるさと言い聞かせているが、朝のまどろみの中では、理性が働かなくなっている時間に、とても苦しい思いをする。

将来への不安、恐れ。許したはずの自分や他人への憤り。割り切ったはずの過去の後悔。失敗の言い訳。

そんなものが、ぐじゃぐじゃと、夢かなにかわからない状態で襲って来る。うとうとする中で、お不動様の真言を唱えてみたり、「ありがとうございます」などとつぶやいたりしながら、のたうつ。

起きてしまえばいいのだが、体と頭はもう少し休みたがっている。苦しい時間が過ぎる。

なんとか、起きる。気力がわかない。

無気力状態が、顔を洗い、服を着替えまで続く。

主治医に相談しても、この件についてだけは、対応法がいまだだ見つからない。

本当に心というものは、心のままにはいかないものだ。

 

こんなふうだが、まあ、社会生活は、君の言うとおり「商才がない」のは別として、起きている時間は明るく過ごすように、元気にあいさつなどしながらなんとかやっているで、事件を起こしたりはしないと思う。

 

みんなは、寝てる時も「今」という瞬間を精一杯生きているのだろうか。

 

それにしても、生きていると、その瞬間で判断しなくてはならないことが多々ある。

危機管理の大切さはもちろん重大なことだし、企業や組織の責任も重い。

個人の日常でも、的確に判断できるように、日々心がけていくことは大事だが、なにせ「想定外」の世の中だ。ささいなことでも、判断を誤ったりすると、一つの行為だけで、全人格を否定されてしまうこともある。

世の中は、こういうことにもう少し寛大になってほしい。やさしい世界になっていくといいなあ。

 

明日をわずらいませんように。

今日は、ここまで。