轍鮒の急(てっぷのきゅう)〜3
とーとです。あいかわらずです。
前回は「轍鮒の急」の故事成語からずいぶん離れたね。
今日もまた、話が飛ぶと思うよ。
荘子も魚も、何日も後のことではなく、今を生きなくてはならなかった。
追い詰められていても、そうでなくても、「今を生きる」ということはよく胸にきざまなくてはいけないと思う。
「今この瞬間を精一杯生きよう」ということはよく言われることだが、この意味が、本当にわかっている人は少ないかもしれない。
新約聖書に
「明日のことを 思いわずらうことなかれ
明日のことは 明日おもいわずらえ
一日の労苦は 一日にて足れり」
という教えがある。
とーとはクリスチャンではないが、せっかくやって来る毎日を、少しでも明るく過ごそうと心がけている。
しかし、頭でわかるということと、心の底からそういうふうにできるということとは、悲しいかな別物だ。
とーとは、病気の関係もあり、朝がきつい。
目覚めているときは、心がけどおり、明るく人に接し、困っても、なんとかなるさと言い聞かせているが、朝のまどろみの中では、理性が働かなくなっている時間に、とても苦しい思いをする。
将来への不安、恐れ。許したはずの自分や他人への憤り。割り切ったはずの過去の後悔。失敗の言い訳。
そんなものが、ぐじゃぐじゃと、夢かなにかわからない状態で襲って来る。うとうとする中で、お不動様の真言を唱えてみたり、「ありがとうございます」などとつぶやいたりしながら、のたうつ。
起きてしまえばいいのだが、体と頭はもう少し休みたがっている。苦しい時間が過ぎる。
なんとか、起きる。気力がわかない。
無気力状態が、顔を洗い、服を着替えまで続く。
主治医に相談しても、この件についてだけは、対応法がいまだだ見つからない。
本当に心というものは、心のままにはいかないものだ。
こんなふうだが、まあ、社会生活は、君の言うとおり「商才がない」のは別として、起きている時間は明るく過ごすように、元気にあいさつなどしながらなんとかやっているで、事件を起こしたりはしないと思う。
みんなは、寝てる時も「今」という瞬間を精一杯生きているのだろうか。
それにしても、生きていると、その瞬間で判断しなくてはならないことが多々ある。
危機管理の大切さはもちろん重大なことだし、企業や組織の責任も重い。
個人の日常でも、的確に判断できるように、日々心がけていくことは大事だが、なにせ「想定外」の世の中だ。ささいなことでも、判断を誤ったりすると、一つの行為だけで、全人格を否定されてしまうこともある。
世の中は、こういうことにもう少し寛大になってほしい。やさしい世界になっていくといいなあ。
明日をわずらいませんように。
今日は、ここまで。