朝三暮四(ちょうさんぼし)〜2
とーとです。今日もへろへろしてます。
だって残業が続いてるし、私事も忙しいし、ブログは毎回同じような内容になっちゃうし。
さて、前回は、投げやりで終えましたが、いいかげん男を目指して、今回も投げやりでやるぞ!
しかし、根が真面目で、小心者という壁をどう乗り越えるか。
朝三暮四(ちょうさんぼし)という故事成語には、2つの意味があると話したね。
荘子(そうし)のお話と列子(れっし)のお話(名前はどーでもよい)二人の思想家がそれぞれ同じ話を取り上げているけど、
片方は、
「同じものでも、見方によって変わって見えてしまう」
もう片方は、
「言葉で相手をだます」
ということなそうな。
だますという解釈は前回、少し話した。
見方によって変わってしまう。これは、けっこう核心をついている。
「丸い卵も切りようで四角 ものも言いようで角が立つ」
目でものを見ているわけではない。耳で聞いているわけではない。肌で感じているわけではない。
すべてが、脳で感じている。
脳が、都合のいいものを選んだり、都合の良いように判断してしまうのはテレビの番組などでよく紹介される「錯覚」「錯視」などと呼ばれるものだ。
高速で回転するものがどちらに回っているか、脳が勝手に解釈している。
雑音が流れる中で、自分に向かって放たれる言葉だけを聞き取ったりするのは、脳が、他の余分な音を排除しているからだ。聖徳太子は10人分聴き分けたらしいけど。
君の見ている「赤」という色は、とーとが見ている「赤」と違うように見えているかもしれないが、誰もそれを、同じとも、違うとも、証明はできない。
朝4つ、夕方3つ。これが、朝3つ夕方4つと同じだとは言えないのではないか。
ひとつの出来事は、みんなそれぞれが、違うように感じているのが当たり前と思った方がいいかもしれない。
なんか、孤独になってきたぞ。
ひとりで生まれ、ひとりで去って行く。
この世は夢だ。楽しく生きよう。私の人生だ。
でも、みんな違ってそれでいいんだよね。
大切なのは、みんな違うのを、みんなで認め合うということ。
また、真面目になってしまった。
もう少し、ゆるやかを目指すが、慣れないことは難しい。
今日はここまで。