木鶏(もっけい)〜2
とーとです。
焼き鳥は、季節に関係なくおいしいですね。
串に刺したままかぶりつくのは下品だと、おはしで外してから食べるのを、店の人は
「せっかく串に刺して焼いてるのに、なんで外してしまうんだ」
と悲しく思っていたとか…。
作る側と、食べる側の関係って、面白いなあと思います。
やたら威張った店主が、食べ方をいちいちお客に指図して、お客もそれをありがたがっている店があるという話を聞いたことがあります。ずいぶん昔の話で、そんな店はもう絶滅したのかもしれませんが、とにかく高級な店には縁がありませんので…。
たしかに、お店で訳がわからないものが出てきたら、どうして食べるのがいいのか、作り手の人に聞くのが正しいのだろうとは思います。しかし、自分のおいしいように食べるというのが、大前提ですけどね。
まあ、ラーメン専門の、我ら親子には、今のところ関係ない話です。
さて、「木鶏(もっけい)」について。
鶏に「徳(とく)」というのがあるのか、少し突っ込みたくなる気もしないではないが、たとえ話なのだろうね。
行き着くところに行き着くと、その存在だけで、動作も言葉も関係なく、周囲を圧倒できる境地にたどり着くのか。
それとも、周囲に存在を感じさせないようになり、戦ったら、相手は訳がわからないままに負けているという感じなのだろうか。
どうも、後者みたいな気がする。
このごろの、スポーツの世界では、相手の情報を細部まで分析して、対策を徹底することで、勝利を得ることが、主流のような気がする。
いわゆる「研究されている」というやつ。
たぶん、いくら研究されても、そんな小細工に関係なく、勝ちを得られる境地に行けた時が「木鶏(もっけい)」ではないかと思ったりもする。
この話は前にも出てきた「荘子(そうし)」という人の話として世に出ているらしい。
あえて、事をおこすことを嫌って、自然に振る舞うことを良しとした人の、理想像として語られているのだろう。
生きていればいろいろなことぶつかる。
あらかじめ、予想して、対応できることならばいいが、とっさには判断がつかなくて、最良の選択ができなかったりすることも多い。
また、目先の小細工は、あとから破綻することもときどきあったりもする。
先にあれこれ考えずに、自然体で、後悔することのない対応ができるように、そんな心構えができるようになるのが、徳を積むことの本当の意味かもしれない。
なかなかなれないけれど、
悠然(ゆうぜん)とかまえ。
自然に振る舞い。
後悔を残さない。
理想だよね。
いつも、おろおろしているとーとの姿を君は見ているから、とーとは、一生かかってもそこまでいけっこないと、一番わかっているだろうけれど。
まあ、仕方ない。
今日はここまで。