群盲評象(ぐんもうひょうぞう)〜1
とーとです。
やはり、精神が不安定ですね。
それでも、仕事も、生活のこともこなさなくてはなりません。
しかし、この状態だと、いろいろミスが出る。
特に、数字の「123」を「132」としてしまったりするのは、神経が疲れているシグナルです。
いつもより慎重に、点検を重ねるので、余計に手間がかかり、疲れに輪をかけます。
大切な人を喪ってから時間が経ちました。
生活のリズムが変わったのに、まだ、体も心も慣れないのでしょうね。
とーとは、まず、将来のことが、心配になります。
あれは大丈夫か。これがうまくいかなければどうしよう。
それから、それを、過去のせいにしようとします。
全く、前向きではないです。
気持ちというのは、自分の思う通りにならない。
気持ちというのは、自分自身とは、別のものなのか。
自分自身とは、自分の思うようになるものか。
そもそも、自分自身ってなんなんだ?
「群盲象を評す(ぐんもうぞうをひょうす)」は故事成語というより、仏教説話らしい。
何人もの、目の見えない人が、それぞれ、象をさわり、王様に、象とはどのようなものか報告をした。
足をさわった者は「象とは、立派な柱のようなものです」と言った。
尻尾をさわった者は「象とは『ほうき』のようなものです」と言った。
尻尾の根元をさわった者は「象とは『杖(つえ)』のようなものです」と言った。
腹をさわった者は「象とは『太鼓』のようなものです」と言った。
脇腹をさわった者は『象とは『壁(かべ)』のようなものです」と言った。
背中をさわった者は「象とは、高い机のようなものです」と言った。
耳をさわった者は「象とは、うちわのようなものです」と言った。
頭をさわった者は「象とは、なにか大きなかたまりのようなものです」と言った。
牙をさわった者は「象とは、なにか角(つの)のようなものです」と言った。
鼻をさわった者は「象とは、太い綱(つな)のようなものです」と言った。
それぞれが、自分が言っていることが正しいと譲らず、言い争いを始めたそうだ。
「とーと」とは、なんなのだろう。
象は、全体があって、はじめて象であり、一部だけで象にはならない。
名前の話になるけど、「とーと」と呼ばれているから「とーと」なのだというわけでもない。
仏教の教えにある話なので、多くの偉いお坊さんが、高い見識で、解釈をされているのだと思う。
とーとは、とーとなりに、未熟な考えをたどたどしくかたることになるのだなあ。
多分、「わかんない」が結論になるだろうけど。
今日は、ここまで。