とーと通信

50代後半の父親が息子に語るブログです。よろしければご覧になってください。

群盲評象(ぐんもうひょうぞう)〜1

とーとです。

 

やはり、精神が不安定ですね。

 

それでも、仕事も、生活のこともこなさなくてはなりません。

しかし、この状態だと、いろいろミスが出る。

特に、数字の「123」を「132」としてしまったりするのは、神経が疲れているシグナルです。

いつもより慎重に、点検を重ねるので、余計に手間がかかり、疲れに輪をかけます。

 

大切な人を喪ってから時間が経ちました。

生活のリズムが変わったのに、まだ、体も心も慣れないのでしょうね。

 

とーとは、まず、将来のことが、心配になります。

あれは大丈夫か。これがうまくいかなければどうしよう。

それから、それを、過去のせいにしようとします。

全く、前向きではないです。

気持ちというのは、自分の思う通りにならない。

気持ちというのは、自分自身とは、別のものなのか。

自分自身とは、自分の思うようになるものか。

そもそも、自分自身ってなんなんだ?

 

「群盲象を評す(ぐんもうぞうをひょうす)」は故事成語というより、仏教説話らしい。

 

何人もの、目の見えない人が、それぞれ、象をさわり、王様に、象とはどのようなものか報告をした。

 

足をさわった者は「象とは、立派な柱のようなものです」と言った。

尻尾をさわった者は「象とは『ほうき』のようなものです」と言った。

尻尾の根元をさわった者は「象とは『杖(つえ)』のようなものです」と言った。

腹をさわった者は「象とは『太鼓』のようなものです」と言った。

脇腹をさわった者は『象とは『壁(かべ)』のようなものです」と言った。

背中をさわった者は「象とは、高い机のようなものです」と言った。

耳をさわった者は「象とは、うちわのようなものです」と言った。

頭をさわった者は「象とは、なにか大きなかたまりのようなものです」と言った。

牙をさわった者は「象とは、なにか角(つの)のようなものです」と言った。

鼻をさわった者は「象とは、太い綱(つな)のようなものです」と言った。

 

それぞれが、自分が言っていることが正しいと譲らず、言い争いを始めたそうだ。

 

「とーと」とは、なんなのだろう。

象は、全体があって、はじめて象であり、一部だけで象にはならない。

名前の話になるけど、「とーと」と呼ばれているから「とーと」なのだというわけでもない。

 

仏教の教えにある話なので、多くの偉いお坊さんが、高い見識で、解釈をされているのだと思う。

 

とーとは、とーとなりに、未熟な考えをたどたどしくかたることになるのだなあ。

多分、「わかんない」が結論になるだろうけど。

 

今日は、ここまで。