とーと通信

50代後半の父親が息子に語るブログです。よろしければご覧になってください。

知音(ちいん)〜1

とーとです。

 

君は親友と言える存在はいるのかなあ。

 

とーとはいないねえ。

 

とーとのことを、一番理解しているのは、とーと自身でもなく、妻であるお母さんでもなく、生みの親である「ばーば」でもなく、もしかしたら、君ではないかと思ったりする。

 

「商才がない」「小心」「心配性」すべて的確に、とーとの核心を突いている。

 

あまり簡単に、「親友だ!」などというのをとーとは好まない。特に、神経を病むようになってっから、だれにもわかってもらえないんだろうなあと思って今日まで来た。

とーとのことを、本当に心配してくれる人は多い。まわりは、優しい人たちで満ちている。

でも、わかってくれてはいない。かけられる言葉で、それとわかる。

孤独ではある。でも、それが、普通なのかもしれない。

 

中国では、刎頸の交わり(ふんけいのまじわり)と言って、相手のためなら、自分が首をはねられてもかまわないという、友人関係のたとえもあった。そんな関係も冷えて、敵対してしまった例もある。

 

走れメロス」という太宰治の小説は有名だよね。

親友ってなんなんだろうなあ。

 

今回の故事成語は、本当に相手のことが理解できる人間関係についてのたとえ。

 

琴の名人がいた。

友人の前で、雄大な山のことを思って琴を弾くと

「すばらしいなあ。高くそびえた山のような感じがするよ」

と感想を述べ、

流れる水のことを思って琴を弾くと

「ああ、さらさらと、水が流れていくようだ」

と感想を述べた。

 

その友人が死んでしまった。

 

琴の名人は、琴に張られた糸を切ってしまい、その後、二度と琴を弾くことはなかった。

「この世に、琴を弾いて聞かせるのに十分な人はいなくなってしまった」

そう言ったそうだ。

 

「音を知る」ことから、「知音」として、特に親しい友人を指すようになった。

 

けっこう、今日では、簡単に、軽い友人関係をこの言葉で表すようになっているように思うが、失礼な話ではある。

 

本当に、自分を理解してくれる、自分以外の人と出会えたら幸せなのだろうか。うっとおしいのか(へそ曲がりの言い分)

 

君のことを、ある程度理解しているつもりでとーとは、いた。

しかし、このところの君の進化は、とーとの想像をはるかに超えている。

君は、日ごとに成長して、もうじきとーとの理解できない、はるかな世界にゆくのだなあ。

 

良き出会いを祈る。

君のことを、君以上にわかってくれる存在が現れればいいね。

 

とーと自身は、たぶん、このまま孤独なのではないかと思ったりもする。

しょせん、人は一人でやってきて、一人で去って行く。

 

「親友」それは軽い言葉ではない。

「いい友」はいる。それを「親友」と呼べるかは別のように思うんだ。

「親友」がいないとーととしては、君たちに軽はずみには使ってほしくない言葉なのだけど、まあ、何言っても、君の勝手なんだけどね。

 

かたく考えすぎないほうがいいのかなあ。

 

今日はここまで。