知音(ちいん)〜1
とーとです。
君は親友と言える存在はいるのかなあ。
とーとはいないねえ。
とーとのことを、一番理解しているのは、とーと自身でもなく、妻であるお母さんでもなく、生みの親である「ばーば」でもなく、もしかしたら、君ではないかと思ったりする。
「商才がない」「小心」「心配性」すべて的確に、とーとの核心を突いている。
あまり簡単に、「親友だ!」などというのをとーとは好まない。特に、神経を病むようになってっから、だれにもわかってもらえないんだろうなあと思って今日まで来た。
とーとのことを、本当に心配してくれる人は多い。まわりは、優しい人たちで満ちている。
でも、わかってくれてはいない。かけられる言葉で、それとわかる。
孤独ではある。でも、それが、普通なのかもしれない。
中国では、刎頸の交わり(ふんけいのまじわり)と言って、相手のためなら、自分が首をはねられてもかまわないという、友人関係のたとえもあった。そんな関係も冷えて、敵対してしまった例もある。
親友ってなんなんだろうなあ。
今回の故事成語は、本当に相手のことが理解できる人間関係についてのたとえ。
琴の名人がいた。
友人の前で、雄大な山のことを思って琴を弾くと
「すばらしいなあ。高くそびえた山のような感じがするよ」
と感想を述べ、
流れる水のことを思って琴を弾くと
「ああ、さらさらと、水が流れていくようだ」
と感想を述べた。
その友人が死んでしまった。
琴の名人は、琴に張られた糸を切ってしまい、その後、二度と琴を弾くことはなかった。
「この世に、琴を弾いて聞かせるのに十分な人はいなくなってしまった」
そう言ったそうだ。
「音を知る」ことから、「知音」として、特に親しい友人を指すようになった。
けっこう、今日では、簡単に、軽い友人関係をこの言葉で表すようになっているように思うが、失礼な話ではある。
本当に、自分を理解してくれる、自分以外の人と出会えたら幸せなのだろうか。うっとおしいのか(へそ曲がりの言い分)
君のことを、ある程度理解しているつもりでとーとは、いた。
しかし、このところの君の進化は、とーとの想像をはるかに超えている。
君は、日ごとに成長して、もうじきとーとの理解できない、はるかな世界にゆくのだなあ。
良き出会いを祈る。
君のことを、君以上にわかってくれる存在が現れればいいね。
とーと自身は、たぶん、このまま孤独なのではないかと思ったりもする。
しょせん、人は一人でやってきて、一人で去って行く。
「親友」それは軽い言葉ではない。
「いい友」はいる。それを「親友」と呼べるかは別のように思うんだ。
「親友」がいないとーととしては、君たちに軽はずみには使ってほしくない言葉なのだけど、まあ、何言っても、君の勝手なんだけどね。
かたく考えすぎないほうがいいのかなあ。
今日はここまで。