嚢中之錐(のうちゅうのきり)〜2
とーとです。
いよいよ、いろいろなことがふりかかってきました。
はっきり言いまして、このブログが存続できるかどうかわかりません。
まあ事情は、さておき、いろいろなことがおきます。
なるべく、がんばらないで通れるものならば、そこそこで通過したいのですが、神様がそう言ってくれないみたいです。がんばると、ますますがんばらなくてはならなくなるという説もあります。
「自分を大切にしましょう」よく聞くフレーズですが、抜き差しならない状態に入れば、「そんなこと言ってられない」ていう人って多いんじゃないでしょうか?
自分が幸せにならなくては、周りを幸せにできない。もっともです。
アナログの世代の人は、自己犠牲を尊いものとしてきましたが、最近の思想は違うみたいですね。
まず、自分が幸せになる。
一度、お坊さんに「捨身飼虎」の意味を聞いてみようと思っています。
お釈迦様が生まれ変わる前に、その身を飢えた虎に与えて、飢えから救ったという話なんですが、自分の身を殺して、虎の一時の飢えを救う事が、良い行いなのかどうかよくわからず、積年の疑問となっています。
もし、このブログが続いていたら、紹介できるかもしれません。
さて、「嚢中の錐」だけど、「すぐれた人は、見ただけで違う。そのままで、他人に抜きん出たオーラが出ている」そんな感じで使われているけど、前回の説明のように、そうは見えなかった人が活躍することもある。
結局、場を与えられてみなければ、本当の価値はわからないのだろうね。
「天の時、地の利、人の和」という言葉もあるが、同じ人が、同じようなチャンスを与えられても、時宜(じぎ)すなわち、適切な時だったかによっても変わってくるもんだ。
君も、試されて、しくじって、みがかれて、そして強くなって行くんだろうなあ。
ただ、運というのはたしかにあると思う。時代に選ばれた人というのは存在する。
努力したか、しないかではない、不思議なものにはこばれて、栄光をつかんだり、挫折したりする歴史上の英雄たちの話は、みんな知っていると思う。
前にも言ったように、アナログな時代には、苦労して苦労して成功をつかんだ事にしないとおさまらない風潮があって、伝記物はそういう構成に作られているが、最近は、いろんな解釈がされるようになってきているようだね。
風が君を運んでくれるなら、それでいいい。
風が吹かなければ、地面を、景色を楽しみながら、ゆっくり歩いていけばいい。
とーとは、あまり流れに逆らわないようにしようとしてきたが、また、「お試し」が降ってきたようだ。
やれることをやるしかないね。
まだ続けられるかわからない。
とりあえず
今日はここまで。