三人成虎(さんにんせいこ)〜2
とーとです。
「三人市虎を成す(さんにんしこをなす)」の続きです。
多くの人が言ったからといって、それが正しいとは限らないのは、ごく当たり前だけど、「多数決」というのも、公平だという固定観念もあるよね。
多数決が公平だという考えは、ある意味危険でもある。
よくある「いじめ」だって、たくさんの人が、数の力で、ひとりの人間をしいたげる構図になっているよね。
「いじめる側」が多数で、「いじめられる側」が少数だから、「いじめる側」が正しい?
そんなはずないよね。
多数決は、時に、責任のありかをあいまいにする。
「みんなそう言っているから」「みんながやっているから」
これを無責任だと批判して「ヒトラー」は、ドイツの民衆の心をつかんだのだと聞いたことがある。
これもまた、危険ではある。
民主主義の発祥の地である「古代ギリシャ」でも「衆愚政治(しゅうぐせいじ)」というのがおこって、国を傾けていったということがあったようだ。
今、世界では「ポピュリズム」と呼ばれる、大衆迎合の考えが反映して、「人類すべての幸せ」ではなく、「選挙に投票してくれる、自国の人だけが良くなればいい」という考えの政治家が多くの支持を得ているのも現状だ。
「あおり運転」の事件で、「加害者の弁護をする人の気がしれない」という話を耳にする。
注意されたことに腹を立て、何度もあおり運転を繰り返し、追越車線に相手の車を止めさせた。
これに、後続の車が追突して、被害者のご夫婦が亡くなってしまた。
もし、同じことが、君の身に起これば、とーとは、加害者に極刑を求めたいと思うだろう。
しかし、弁護する立場の人は、「危険運転致死傷」とは、車を運転中に起こした行為をさし、車が止まってからの事故は、この罪にはあたらないと主張している。
ひどことをした人は、それなりの罪を償わなくてはならない。
しかし、法律は法律として存在する。もし、日本の人がみんな、「加害者を極刑にすべき」などと言ったとしても、そのとおりにすることが、正義と言えるだろうか。
罪を裁くことは、法律の下で公平でなくてはならない。この点で、弁護する人の主張も理解できる気がするのだけれど。
明治時代に、「大津事件(おおつっじけん)」というのがあった。
ロシアの皇太子が日本に来ている最中に、警備にあたっていた警察官が、皇太子に突然切りつけ、怪我を負わせたという事件だ。
大国といわれるロシアを、当時まだ力が弱かった日本が怒らせてしまうと、とても困ったことになる。
ロシアが怒って攻めてくるのではないかと人々は恐慌状態になったそうだ。
当時の日本政府は、加害者を「死刑」にしようと裁判関係者に圧力をかけた。
それはそうだろう。大国に攻め込まれでもしたら、とんでもないことだ。とにかく、最大限のおわびの気持ちを見せるためには、加害者を「死刑」にして謝るしかない。
しかし、当時の裁判担当者は、法律に照らして、「無期懲役(むきちょうえき)」の判決を下した。
裁判に政治の介入を許さないという点で高く評価されているが、政治的なものだけでなく、国民からの圧力も大きなものだったのではないかなあと思う。
たとえ国を滅ぼされても、一個の人間、しかも犯罪者の人権を優先するのは、とても勇気がいると思う。当時の人権という考え方がどんなものだったのかよくわからない。もしかすると、法律の解釈を重んじたのかもしれない。
しかし、これがきっかけで戦争が始まり、日本がロシアに占領されてでもいたら、また、評価は変わっていたのだろうか?
私たちは、いつ、被害者になっても、加害者になてもおかしくない世界に生きている。
人が人を裁くことができるのか。難しいね。
それにしても、
「国民の皆様の声を国政に活かします」
などと演説する政治家も多いけど、
リーダーであれば、
「自分の考えはこうだ。これが、みんなが幸せになる道だと信じてやり遂げたい」そう訴えて、みんなにしっかり説明するぐらいの見識とリーダーシップがなければ、だめだろうね。
「みんながそう言ったからそうする」それでは、あまりに頼りない。
そうかと言って、ゆがんだ考えをみんなに押し付けたり、特定の人たちの利益だけを考えたりする人をリーダーに選んでしまうわけにはいかない。
結局、その国の民度の高さと言わざるを得ないのかもしれない。
自由に、理性的に、公平に、誤った情報に流されずに議論を深めていくことしか、方法はないのだろう。
選んだ道には、選んだなりの責任を持つことが必要なのは、人生でも、政治でも同じだろう。
厳しいけどねえ。
生きている以上は、なにかしら責任が伴う。
明るく楽しく
そして、真剣に!
今日はここまで。