とーと通信

50代後半の父親が息子に語るブログです。よろしければご覧になってください。

先憂後楽(せんゆうこうらく)〜2

とーとです。

 

あっというまにお正月を終えて、お仕事に励まれている方も多いと思います。

中には、ずっと働きづめで、遅いお正月休みをとられている方もいるのかな。

 

とにかく、年をとるごとに、1年が短く感じられるようになっていきます。

今年もあとわずか(そんなことはない!)

 

じたばたしながら、日月を重ねて行きます。

 

これから、寒さがますます厳しくなってゆきます。

季節のうつろいを感じ、それを愛でるのが、日本に生まれた喜びなのでしょうが、暑い時には暑いように、寒い時には寒いように、不平不満を言いながら生きていますねえ。

暑い夏には冷えたビールを楽しみ。

寒い冬には、熱燗を楽しむ。

お酒を愛する人が、季節のうつろいを愛でる名人に近い場所にいるのかもしれません。

 

さて、お題の「先憂後楽(せんゆうこうらく)」の、最初の方の意味について

 

人が心配し始める前に、心を配り、憂い、手を打つ。

人が安心して楽しんでいるのを見て、ようやく自分も楽しむ。

 

というのが、元の意味だと前回話した。

 

感じたのは、親が子を思う気持ちに似ているのかなあということ。

 

自分自身より、子供のことを心配して手を尽くし、

子供の笑顔を見て、親自身が心から喜ぶ。

 

世の中の政治を行う人も、こういう気持ちでいてくれたらという理想像なんだろうね。

 

なんか、自分でもどうしてかわからないけど、「宮沢賢治」を連想してしまった。

 

こういう言葉を、美しいと思うのは、とーとが古いタイプの人間に属するのかもしれない。

 

このごろの思想では、自分の心にしたがって、他人の目など気にせずに、思うように生きることが、自分を生きることだという内容の著書が、けっこう出回っている。

自己実現なしに、自己犠牲では、結局自分の人生を全うできない。

人のために自分が犠牲になるという、「美しい」と自分が勝手に思い込み、陶酔している意識の中で生きても、結局自分だけでなく、他人も救えない。

そんなことの書かれた本を、何冊か読んだ。

 

思う通りに生きて、自然に、自分もみんなも笑顔になれる。そんな生き方が理想なのかもしれない。

 

ただ、人の親になってみて、ようやく、自分の親が、どんな気持ちで、自分を見守っていてくれていたのか、はじめて理解できるようになってはきた。

 

当初の仏教では、「愛」も煩悩(ぼんのう)のひとつとされた。

お釈迦様は、修行の世界に入る前に、生まれてきた自分の息子に「邪魔者(じゃまなもの)」という意味の名前をつけたそうだ。子を思う親の気持ちがなによりもまさり、それが修行の妨げになるとわかっていたのだという。

 

ところが、後世では、煩悩(ぼんのう)から、悟りが生まれるという思想もうまれた。

 

愛という世界で悩めるならば、それはそれで幸せなことではないかと、悟れない愚か者は思ったりする。

 

「悩みはつきないな 生きているんだもの」(あいだみつお)

 

今日はここまで。