先憂後楽(せんゆうこうらく)〜2
とーとです。
あっというまにお正月を終えて、お仕事に励まれている方も多いと思います。
中には、ずっと働きづめで、遅いお正月休みをとられている方もいるのかな。
とにかく、年をとるごとに、1年が短く感じられるようになっていきます。
今年もあとわずか(そんなことはない!)
じたばたしながら、日月を重ねて行きます。
これから、寒さがますます厳しくなってゆきます。
季節のうつろいを感じ、それを愛でるのが、日本に生まれた喜びなのでしょうが、暑い時には暑いように、寒い時には寒いように、不平不満を言いながら生きていますねえ。
暑い夏には冷えたビールを楽しみ。
寒い冬には、熱燗を楽しむ。
お酒を愛する人が、季節のうつろいを愛でる名人に近い場所にいるのかもしれません。
さて、お題の「先憂後楽(せんゆうこうらく)」の、最初の方の意味について
人が心配し始める前に、心を配り、憂い、手を打つ。
人が安心して楽しんでいるのを見て、ようやく自分も楽しむ。
というのが、元の意味だと前回話した。
感じたのは、親が子を思う気持ちに似ているのかなあということ。
自分自身より、子供のことを心配して手を尽くし、
子供の笑顔を見て、親自身が心から喜ぶ。
世の中の政治を行う人も、こういう気持ちでいてくれたらという理想像なんだろうね。
なんか、自分でもどうしてかわからないけど、「宮沢賢治」を連想してしまった。
こういう言葉を、美しいと思うのは、とーとが古いタイプの人間に属するのかもしれない。
このごろの思想では、自分の心にしたがって、他人の目など気にせずに、思うように生きることが、自分を生きることだという内容の著書が、けっこう出回っている。
自己実現なしに、自己犠牲では、結局自分の人生を全うできない。
人のために自分が犠牲になるという、「美しい」と自分が勝手に思い込み、陶酔している意識の中で生きても、結局自分だけでなく、他人も救えない。
そんなことの書かれた本を、何冊か読んだ。
思う通りに生きて、自然に、自分もみんなも笑顔になれる。そんな生き方が理想なのかもしれない。
ただ、人の親になってみて、ようやく、自分の親が、どんな気持ちで、自分を見守っていてくれていたのか、はじめて理解できるようになってはきた。
当初の仏教では、「愛」も煩悩(ぼんのう)のひとつとされた。
お釈迦様は、修行の世界に入る前に、生まれてきた自分の息子に「邪魔者(じゃまなもの)」という意味の名前をつけたそうだ。子を思う親の気持ちがなによりもまさり、それが修行の妨げになるとわかっていたのだという。
ところが、後世では、煩悩(ぼんのう)から、悟りが生まれるという思想もうまれた。
愛という世界で悩めるならば、それはそれで幸せなことではないかと、悟れない愚か者は思ったりする。
「悩みはつきないな 生きているんだもの」(あいだみつお)
今日はここまで。