上善如水(じょうぜんみずのごとし)~2
とーとです。
夏風邪が回復してきたと思ったら、急に涼しくなってしまいました。
体力が回復せず、気合が入らず、仕事だけで精いっぱい。
上司には「これをやってみてくれ。ただし、楽しく!」などと、返答に困るようなリクエストをされて困惑する日々です。
職場でも、うつの症状は外に出てるんだろうなあ。
精いっぱいなんだけど。
断るのも面倒なので沈黙していたら諦めてくれました。
まあ、そんなこんなで、高齢者だらけの自治会の仕事やらも重なって、動きのとれない日々がついづいています。
ブログの投稿のできない、ただの言い訳です。
さて、お題について。
上善は水のごとし。
「老子」という方の言葉だそうだ。
水はすべてのものに恵みを与えながらも、他と争わずに、入れ物によって形を変えて、自分は、一番低い位置にいる。
これが理想なのだそうですよ。
黒田官兵衛という、豊臣秀吉に仕えた人も、自分が謀反をおこすのではないかと疑われたと気づいたときに、「如水(じょすい)」と名前をかえて、天下取りに欲望のないことを示したのは有名な話だ。
流れる水は、ガツンとはぶつからない。
しかし、しだいに物を押し流し、形を変えてゆく。
水滴も、長い時間かけて、岩にも穴をあける。
やんわりと、ケンカしないで、自分の考えが理解され、世の中に影響をあたえていけたら理想だよね。
そして、トップには立たないどころか、一番低い位置にいる。
へりくだって、いばらない。
角を立てずに、相手を良い方向に導いてゆく。
自分の生きたいようにいきてゆくことを譲ってはいけないけれど、世の中どうしても相手があることが多い。
君が学んでいる、「他人の考えを否定しない」ということは、ある意味、水の理想に近いものがあるかもしれないね。
しかし、話はとぶけど、昨日來の雨で、また、水による被害が出てしまっているね。
「罪もない、頑張ってる人が、大変なめにあっているなんて、神様は本当にいるのかなあ」
そんな声も聞く。
「累卵の危」のときにも書いたけど、そんなときだからこそ、とーとは、神様か仏様か宇宙意思かわからないけど、そういうものがあると信じたいし、信じなきゃやっていかれない。
君は多分無神論者なんじゃないかな。それはそれでよいのだけれど。
とーとが、証拠もないのに、無神論者でないことは、もう少ししてから、考えを整理して語ろうと思う。
トルストイの「人はなんで生きるか」という本を、時間があったら読んでみるのもよいかもね。キリスト教の色合いが強くて、違和感を抱く人もいるとは思うけど。
即位礼正殿の儀の日にかかった虹のように、すべてに希望の光が届きますように。
次回もいつになるかわからない。
申し訳ないです。
今日はここまで。