とーと通信

50代後半の父親が息子に語るブログです。よろしければご覧になってください。

井蛙(せいあ)〜1

とーとです。

 

いろいろ検索していると、自分以外にも「とーと」と名乗ってブログを書かれている先輩がいらっしゃるのを何件か発見しました。

 

「とーと通信」というタイトルはこのブログだけですが、かぶってしまった先輩方申し訳ありません。

といっても、訪問者が日に数人のこのブログなど、影響はないと思いますのでご容赦ください。

それにしても、ブログを作られている皆さんは、写真、イラストなどをふんだんに取り入れて、見やすく、訪れたかたをおもてなしするように、心を尽くされていますね。素晴らしいと思います。

とーとは、文字だけで半年やってきました。これはこれでまあいいかなあと思ってやってます。

 

ご承知かと思いますが、「とーと」とは、お父さんの意味です。

 

君になんと呼んでもらうか考えた時、

「パパ」とか「ダディ」は気持ち悪いし

「父さん」なんて普通すぎるし

「父上」「おもうさま」なんていうのも変だし

「おやじ」「おとう」は品がないし

 

ということで、「とーと」に落ち着きました。

 

もうじき高校生になる君は、もう「とーと」と呼んでくれることはなくなってきたけど、とーとはいつまでも君のとーとです。

おっと、言い遅れた

卒業おめでとう!!!!

 

さて、「井蛙(せいあ)」について。

 

井の中の蛙大海を知らず(いのなかのかわずたいかいをしらず)」といえばよく聞く言葉だと思う。

 

大きな河の神様がいた。

この神様は、自分の「河」がとてもたくさんの水量を持ち、大地を流れてゆくのをとても誇らしく思っていた。

 

ある時この神様は、河が流れ着く北の海を見た。

その大きさに圧倒されて、自分がちっぽけな存在に過ぎないと感じ、

現れた海の神様に、

「今まで、自分はとても大きくて、比べるものがない存在だと思ってきましたが、海というものを見て、自分がいかに小さな存在かを思い知りました。恥ずかしい限りです」

そう言った。

 

海の神様は

「井戸の中に暮らすカエルは、外の世界を知らない。カエルの世界の全ては井戸の中にある。海の話をしたところでどうしようもない。  一夏で生涯を終える虫に、氷の話をしても仕方がないだろう。今、あなたは、自分より大きなものの存在を知り、自分の小ささを知った。それだけでも、私はあなたを認め、あなたといろいろなことを語り合いたい気持ちになった」

そう話したそうだ。

 

これは、何度か登場している「荘子(そうし)」様が語った話とされている。

 

老子(ろうし)様、荘子(そうし)様の思想である「道家(どうか)」の話はこれに共通するものが多い。

 

たしか、この荘子(そうし)様の思想を書いた書物の出だしも

「北の大きな海にとてつもなく大きな魚がいて、ある時大きな鳥となり、はるか遠くへ飛んで行く。それを知ったセミや小鳥が、なんとまあ大げさなことをするのかと笑った」そんな記述がある。

荘子「逍遥遊編」??かな。記憶が定かでなくてごめん。

このブログは、出典にこだわらないというか、細密に検証する能力のない人が作っている。(とーとのこと)

あんまり「原典が何か」などとこだわらない方が話しやすいとも思っているので、いいかげんなところも多いけど、「そんなもんだ」と許してね。

 

前にも話したけど、私たちは、脳で感じ、脳で認識している。

脳が感じられるのが、自分の世界だ。

 

個々の理解には限界がある。

しかし、自分が認識できる世界以外にも、さまざまな世界が広がっているという理解は、豊かさと余裕が生まれるように思う。

 

とーとの高校時代に

「宇宙って果てしなく無限なんだよなー。俺、そういう話を聞くたびに、自分が小さいなあって悲しくなるんだよなー」

そう語っていた友人がいた。

本当に、ときおり、人というものの限界と無力感を感じることがある。

少し電車に乗って、隣町に行くと、全然知らない人が、全然知らない家で、全然知らない家族と(あるいは一人で)、全然知らない職場で、全然知らない仕事をして、全然知らないことで笑ったり、悩んだりしている。そういう存在が無限にある。

とーとは、この当たり前の事実が、なんとなく恐ろしく、なんとなくさびしく感じてしまうことがある。

 

無限に広がる世界で、一生のうちで出会える人は限られているね。

縁(えにし)というものをもっと大切に考えないといけないのかもしれない。

 

君もこれから、また少し広い世界へ出て行って、いろんな人と出会ってゆくんだね。

無限の可能性を秘めた君が、少しまぶしく感じるよ。

わくわくだね。

良き縁を!

 

今日はここまで。