井蛙(せいあ)〜2
とーとです。
春になると、山里は、草との戦いが始まります。
畑や庭に、抜いても抜いても草が生えてきます。
人間は自然を破壊してるとのことで、「自然とはかよわいもの」だという認識が一般的だと思いますが、生えてくる雑草のしつこいこと!生命力のたくましさには、恐ろしささえ感じます。
(「雑草という草はない」と、昭和天皇はおっしゃったそうです。:ひとつの草にもそれぞれ名前があり、命がある。そんな意味でしょうか。もっと深い意味のあるお言葉にも思います)
田畑(農地)を保つのは大変な労力がいります。
私たちの先祖は、さまざまな自然と戦い、ときに利用して農地を開き、維持してきました。
「畑は子や孫から借りている」
将来の農業を見すえて、そんな名言をおっしゃった方もいます。
昔の、電気も水道もなかった時代には、自然とは、今よりももっと、本当におそろしい存在だったのだと思います。とーとは、今でもこわいです。
高齢化によって、農地が保てなくなっています。いわゆる「耕作放棄」というやつです。
ほっておくと、畑は、あっという間に草ぼうぼうの荒地に変わります。
やっぱり、とーとは、自然というものの生命力に、おそろしいものを感じてしまいますね。
野生動物が、市街地に現れるようになったのも、それまで境界線として管理されてきた「里山」の消滅が理由の一つとしてあげられるのだそうです。
自然とは、ものすごくデリケートなものであるとともに、ものすごくたくましくて、パワフルなもののように思います。
おそれること。
それを、中国の思想では大切にしてきたようです。
天をおそれること
人をおそれること
自分が偉くなれば偉くなるほど、「おそれる」ということを肝に銘じなくてはなりません。
それを忘れるて、痛い目にあった例も多いようです。
「実るほどこうべを垂れる稲穂かな」
さて、「井の中の蛙大海を知らず」について。
君は、昔、学校を
「狭い水槽に、いろんな種類の魚がごちゃまぜに詰め込まれているところ」
そんな表現をしたことがあったね。(少し違うかもしれないけどそんな意味の言葉だったと記憶している)
今、君はどこにいるのかな。
井戸の中かな。池の中かな。川にいるかな。
これから君自身が感じてゆくことだ。
そして、君自身が広げてゆく世界だ。
君のいるところは、海にもつながっている。
泳ぎだしていく準備をすればいい。
これからだって、完全に思い通りになることは少ないとも思うけれども、君が行きたいと思うところに、できる限り行けたらいいね。
とーとたちは、全力でそれを後押しする。
でも、どこに行くのか決めるのは、君自身。
泳ぎだすのも君自身。
君の落ち着く先は、海じゃなければならないということではない。
川かもしれない。
沼かもしれない。
池かもしない。
井戸の中かもしれない。
ただ、そこに行き着く前に、海も体験しておいて欲しいし、清流のせせらぎにも行って欲しい。
知っておくということはとても大切なことだ。
川の神様は、海の神様にはなれないけれど、海というものの大きさを知って、それまでよりも大きな存在になったと言える。
君も、いろんな体験をしたうえで、自分の行き着く先を決めて行って欲しい。
逆説的だけど、ある意味、「大海」も「井戸の中」もどちらも有限の世界には変わりないともいえるよね。
井戸の中に住む者を笑ってはいけない。
広い世界を見てくれば、なおさらそう思うこともあるかもしれないよ。
将来のことはわからないけど。
とーとも、「本の世界」という「井戸の住人」だったし、今もそんなもんだなあ。
まあ、尊敬される存在でもないしなあ。
「井の中の蛙大海を知らず」の後に、後世の人が
「されど、空の深さを知る」(諸説あり)
と付け加えたそうだ。
君は、これに、どんなことを感じるのかなあ。
世界が広がっただけ、君は大きくなる。
たとえ、人としての、個人としての限界があるということは変わらなくても、いろんなことを体験して、いろんな人とふれあって、君はどんどん大きくなってゆく。
楽しみだ( ◠‿◠ )
どこまで行っても、君の人生。
誰かと交代できない君の人生。
君の価値観を大切に磨いてほしい。
どんなところに行っても、とにかく君自身を大切にして欲しい。
そして、良い出会いを!
今日はここまで。