付和雷同(ふわらいどう)~1
とーとです。
同年代の人と話をすると、あるていどの人生設計をたてて、それを修正しながら人生を歩まれてきた方も結構いらっしゃるようです。
もとより、計画通りにいく方より、そうでない方のほうが多いのだろうと思いますが、それでも、精いっぱい先をみて、そのとおりにはいかなくても、それなりにしっかり考えてやってきている。
行き当たりばったりの自分の無計画さに、情けなくなります。
そんなことで、また落ち込んでます。毎度のことですが。
がんばって働いているし、それなりに周囲に信頼されてもいるとは思うけど、なにせ、心の病気をわずらって、今もまだ寛解したわけでなく、クリニックへ定期的に通う日々なのですよ。
過去に公務員を退職して、今は民間の会社で楽しくやらせてもらってますが、心については、今だに戦いの日々と言っていいと思います。
わからない人のほうが多いとおもうけど、長くて苦しい戦いです。
私より、もっと大変な方も多いわけで、そんな方からは叱られると思いますが、苦しいものは苦しいのです。
過去に職場を変えたのが、志(こころざし)を持ったものではなく、病気によるものだったこともあり、生活は大きく変わりました。
人生設計なんてしてこなかったけど、この出来事は、人生のなかでの急カーブだったことは間違いありません。
正直、挫折感も味わいました。
おかげで、この歳になっても、この先どうなるんだろうか、綱渡りの日々です。
まあ、多かれ少なかれ、みんな、自分の中では、波乱に満ちた道を歩まれているのでしょうけど。
語りだしたら
「俺なんか(私なんか)、こんな目にあったのをくぐりぬけてきたんだぞ」
皆さんそうおっしゃるでしょうね。
一般論として、どんなにお金があっても(私のことではないです)、家族に恵まれていても(私のことですと言わないと問題が発生します)、社会的名声があっても、やってくる「老い」に対する不安は共通なのかもしれません。
あいかわらず、暗い展開になりました。
まあ、「明るく楽しく」も、こんなバックボーンから発せられてはいるのです。
さて、お題の「付和雷同(ふわらいどう)」について簡単にふれておく。
エピソードがあるわけではなく、書物のなかにある言葉だ。
「自分にしっかりとした考えがなく、すぐに他人の意見に賛成すること」
「雷同(らいどう)」とは、雷の大きな音に共鳴する様をいうのだそうだ。
このことは、現代の、情報にあふれている社会のなかで、けっこう危険な側面をついているようにも感じるね。
「雷同(雷同)」が過剰になり、「世論(よろん:世の中の意見の潮流)」を作り出す声が浅はかなものであったりする場合には、正論が遠ざけられ、個人が尊重されず、どんどん住みにくい世の中になってゆく心配がある。
その時の感情の発露の快感だけで、情報が発せられ、それが潮流になっていくことをとーとは恐れる。
今のところ、情報過剰な社会のなかにも、自浄作用が見て取れるのは救いだけど。
なんか、むずかしい言い方になっちゃったけど、だいたいの意味はわかってくれるよね?
世の中をどちらに進めてゆくのか、その意見集約は、これまで、どうやってきたのだろう。これからどうやって進められてゆくのだろう。
大きな声に流されて、自分を見失いようにしなくては。
これは、無関心にも通じることだと思う。
また、別の機会に、類語だけれど、「和して同ぜず:和而不同(わじふどう)」という故事成語を思いだした。これについても、後日書きたい。
さて、唐突だが、そろそろ初心に帰ろうか。
「明るく楽しく」
今日はここまで。