鶏口牛後(けいこうぎゅうご)〜1
とーとです。まだまだです。
故事成語を語っているけど、決して、価値観や、生き方を押し付けているつもりはない。
それは、よくわかってくれていると思う。
とーとが、願うのは、
君が
⭐️楽しく生きて行ってほしい。
⭐️自分が主人公で生きて行ってほしい。
その2つだ。
とはいえ、とーとはそれができていないことを認めざるをえない。
自分のできないことを、他人に求めるのはいいことではない。
だけど、君の未来のために、切に願う。
時代は、とーとたちの時代から、次の時代へ、そして君たちへの時代へ移って行く。
地球が球形だけど、誰もおっこちないのを、不思議に思わない時代をとーとも生きている。
当たり前でないものが、当たり前になってゆく時代が、どんどん流れて行くのだね。
スマホの使い方が、とーとにはよく理解できないで苦戦するが、君たちは、ごく当たり前に、感覚で使いこなしている。常に新しい時代が来る。
今を生きている。しかし、昔はこんなことを考え、こんなふうに乗り越えてきたということを知るのは無駄ではないと考えて、このブログをつづっている。
捨てるものは捨てていいんだよ。
もう少し、与太話に付き合ってね。
さて、本題の「鶏口牛後」は、
「けいこうとなるとも、ぎゅうごとなるなかれ」とも読まれる。
かいつまんで、説明すると、
大きな強国に対抗するために、中小規模の国が連合して対抗しようということで、各国の取りまとめをしている人が、慎重になっている国の王様に言った言葉だね。
「小さな鶏の頭(くちばし)となっているほうが、大きな牛のお尻になるよましです」
この言葉で、王様を説得して、連合をまとめたそうだ。
「小さくても王様でいますか?それとも大きな国の家来になってしまいますか?小さな国でも王様でいる方がよくありませんか?」
国が滅んでしまえば、元も子もないが、強国の支配に従うだけでは、国として存在している意味がない。
こんな時の選択は、必ずしも一通りではない。牛のお尻でも、存在感を見せつけて、牛の歩み方に影響を与えることができる方を選ぶということも、状況によってはできるだろう。
今の国際情勢も、大きな国は大きいなりの問題を抱え、小さな国は、小さいなりにしたたかに立ち回っている。
生き方として、自分で起業したりして。鶏の頭になるのも、それなりのたいへんけど、それなりに楽しいかもしれない。
牛のような、大きな組織に属して、お尻の部分であっても、そこで自分の持ち味が出せればいい。そういう選択はあるよね。
ただ、自分で考えることを放棄して、ただ、誰かの言うがままにつき従っていくのは、少し危ないように思うんだ。
次回は、ますます脱線するが、いつものことだからね。
今日は、前置きの方が長くなった。
本日、これまで。