愚公移山(ぐこういざん)〜2
とーとです。いろいろあります。
故事成語「愚公山を移す」の続きです。
前回、どんなふうに解釈していけば良いのか迷っていると書いたね。
あきらめずに、ぶれずに、一途に進んで行けば道は開けるのだろうか?
現実に起きてしまっていることに、「たら」「れば」はないという。
あきらめず続けて、傷を深くしてしまうこともある。退き際の見極めが大切ということから、「撤退する勇気」が必要になることも、生きていれば選択しなくてはならないこともある。
宝くじを買い続けて、そろそろ当たるだろうと思っていても、一向に当たらなかったりする。いいかげんあきらめて、「他のことにお金を使う方がいいや」などと思うが、当選者のインタビューなどで「何年もあきらめず続けてみるもんですね。買わなくては当たりませんからね」などという言葉を聞いてぐらついたりする。
話を、きれいにまとめるならば、目的はぶれずに、手段は柔軟にやってゆこうということかもしれない。
「失敗という言葉はない。やり方が間違っていただけだ。別のやり方を試していこう。それがだめでも、次のやり方を試してゆこう」そんな精神で進んでいくことで、成功者と呼ばれる人は誕生するものだ。他人がやっていないこと、まだ誰もやっていないこと、不可能だと思われていることにチャレンジするのだから、この故事成語のおじいさん(愚公)みたいに、周囲の理解を得られず、愚かだと言われる。でも、チャレンジする。それも、生き方だし、生涯日の目を見なくても、その試みを、後世の人が引き継いでくれたりすることもあるのだから、それはそれで幸せかもしれない。
楽しく山を切り崩せれば、それでいい。
やはり、とーとは、賢くもないし、徹底的に愚かにもなれないから、他の人を不幸に巻き込むくらいなら「撤退する勇気」を選ぶことがあるだろうと思う。実際、そんなことが多かったようにも思う。後悔を背負って生きるかもしれないが、やはりそれも人生なんだろうなあ。
選択肢は常に目の前に現れてくる。それを選ぶのは、自分自身。
シビアな話になってしまった。明るく楽しくがモットーなんだが、今回は勘弁してくださいな。
撤退の多かった過去に、自嘲をこめて。
今日は、ここまで。